イノセンス(神)よ…
私の名もなき、慈悲深いイノセンス。
残虐な主よ
どうか、お願いだ。私に囁かないでくれ
今だけはせめて今だけは…

  

 Elevenses ーお茶の時間ー

 

 

 ほんの少しの間、耳をすませた。
あまりにも、身動き一つしないので、彼が死んでいるのではないかと思って…。
ようやく聞こえた呼気に、心から安堵している自分を愚かしいと思いながらベッドの上の彼に声をかける。
「ねむっているのであるか?アレン」
ほんとに眠っているのなら申し訳がないと、つい絞り込んだ声に反応して、アレンが灰色の瞳をうすく開いた。
「ああ…、お帰りなさいクロウリー。任務はどうでしたか?」
うたたねのぼけた声に笑みをのせて、少年が半身を起こす。
「無事にすんだである、場所も近かったしアクマも出なかったし、珍しく楽だったのであるよ。アレンが帰っていると聞いてお見舞いがてら、お茶をご一緒しようかと…」
かなり朗らかにいいながらも、私は開いた上着の隙にはだける少年の惨い体から目を離す事が出来ない。少年の躯の右鎖骨から鳩尾にそって、まるで大蛞蝓が這い回ったように銀色に冷たく氷凝ったような大きな傷が張り付いていて、私の心を濁らせていく。
忘れかけていた焦燥に、自分の身がズブズブと沈むのを思い知る…
おびただしい割礼の御痕を体中に刻み込んだ少年は、仕合せそうな深い息をほどくと
「夢を見ていました」と呟いた。
幸せな夢を- と深くため息をつく。
「どんな夢であるか」
尋ねると、彼はさらさらと崩れていく夢の片鱗を掴み損ねてすこしくやしそうに
「あれ?どんな夢だっけ。ええっと、ああっ…わすれちゃいました。もおー」
と照れ笑った。
「そうであるか………でも!幸せならなによりである」
私は共有できない感情と記憶を惜しみつつも優しくうなずき、棚からアレンのカップを取り出すと、自分の部屋からもってきたポットの熱い紅茶を注いだ。
心地よい湿りが部屋にゆっくりと溶けていく。
「ジェリーさんから分けてもらったペコー(新茶)である。どうぞめしあがれ」
「ありがとうクロウリー」
椅子さえない簡素な部屋で、二人で並んでベッドに腰を下ろし、芳しい紅茶を口にして安息に浸る。
「美味しい!」
「…であるな」
その瞬間にさえ、私は縛めを緩めぬように心を砕いている。
心をそらす為に、思わず呟く。
「アレンは、傷だらけであるな…」
「え?」
なぜか少年は赤面して私を見る。
「いや、あの…はははは。この前のレベル4は強かったですからね。それにバ神田はちっとも協力してくれなくて。ほんと大変だったから。でも、もう大丈夫です、痕は残ったけど、もう痛くも何とも、…ないし…」
アレンは気はずかしさを隠すように、わざと陽気に声を張った。
「あーあ、ぼくもどうせならクロウリーみたいに全身にイノセンスの力が働いてくれたら良かったなあ。クロウリーはどんなに激しく戦ってもアクマの血をすうと傷がきれいに治ってしまうんですものね」
何気なく言ってから、なぜか慌てて訂正する。
「あ!あの、ごめんなさい。うらやましいとか、そういう意味じゃなくてっだからクロウリーの体って本当にきれいだなって…いやっ、それもあの、深い意味は特に」
自分の言葉に泡を食って次から次に必死で訂正しようとしている、素直な、少年。
私はどう答えていいかわからず、ただ笑顔のまま、目を丸くして彼を見つめている。

だが、本当は…私は別な事を思っている。
今日は…その感覚を感じる事がないことに心の底から安堵しながら…。
私は
いや、私のイノセンスは勘づいている。
おそらくアレン以上に。
確実に。 
それは、まだ刹那ではあるけれども、
少年の中に何かがおき始めている事実を嫌というほど。
私にその感覚を叩き付ける。
エリアーデを抱きしめるたびに覚えたあの忌わしいほどの欲望。
あの苦しみ、あの苦さ。あの渇きと熱狂。
…牙がささやく…
カミコロシタイ。カミコロシタイ。カミコロシタイ。
コロセ、コロセ、コロセ!
邪悪な存在を
ノアの…ガキを。
私は必死に抵抗する。
違う、これはノアじゃない。
私の大切な、命よりも大切な小さな、強い友。
大好きなアレン ウォーカーである!
1 4 番 目 のノ ア で は な い。
どうか、お願いだ。
私の名もなき、慈悲深いイノセンス。
今だけは私に囁かないでくれ
せめて、
せめてアレンが戦っている間は。

「クロウリー?どうかしましたか?」
想いに耽る私を、アレンが心配して覗き込む。
その灰色の眼差しは澄んで柔らかい。
私のイノセンス。みるがいい。これが本当にそうか?
これが果たして、お前の獲物か?
答えは何も帰ってこない。
それが、答え。
「大丈夫である」
私はようやく顔を上げて、アレンに向かって笑いかけた。
つられて、彼も笑う。いつもの懐かしい優しさで。
「アレン」
私はつい、思った事を口にする。
「これから先、どんな事があっても私は守るであるから」
(お前を 殺させたりしない)
(神にもアクマにも)
(…私自身にも)
言葉の真意を彼が理解したとは思わない。
けれども、傷だらけの少年は輝くようにそっと微笑んだ。
「ありがとう」

それから二人はお茶の時間に専念する。
最後の一雫までおしむように、削れていく時間を惜しむように。
互いの体に潜む厄災を起こさぬように。
ただ、黙ったまま

そおっと、しずかに。

 

 

 

-ENDE-2009.4.18