クロちゃん!!」

「クロウリー!!」

かけよるエクソシスト達の絶叫が直瀑の落ち口に響いた。

しかし

クロウリーは、まだ滝壺に飲まれてはいなかった。

落下しながらその人間離れした運動神経で壁岩に腕を伸ばした彼は、血で固めた右の指先で岩のわずかな隙間を鷲づかみ、すんでのところでなんとか落下を防いだ。

もう一方の手甲はジョンの腕を掴んでいる。

滝壺までは30mほどだろうか。二人は迸る水に翻弄されながら、みっともなく中空にぶら下がっていた。

何トンもの水圧が、クロウリーと、人間の姿にもどりつつあってなお巨大なジョンの体を押さえつけ、指にかかる重さを何十倍にも激しくする。

「う……くっ…そ」

クロウリーは指先に満身の力を込めて、這い上がろうと努力した。

が、片腕だけではそれどころか、体勢を整える事さえできない。激しい水の流れは足をかける場さえ与えなかった。

もがき続けるクロウリーの下で水をたらふく浴びながら、ジョンがのろりと顔をあげた。

「…てくれ」

未だ獣じみた口で、なんとか、人の言葉を発する。

「て…をはなじでくで」

クロウリーは鼻をならした。

「断る!」

「あんだ…までおぢる だのむ、て…を」

クロウリーはぐいとその腕を握り直した。

「彼女に殺すなとたのまれた」

「もう…いぎで…いられない…がのじょ…にあんなひどい…ことを…もう…おし…まいだ」

みるみる萎えて人間らしさをとりもどしていくジョンの喉から嗚咽のような声が漏れる。

「がのじょが…ずきだっだ…だれにも………だから」

「愛の告白なら本人にしろ。

お前はまだ生きてるではないか。

お互いまだ生きて同じ世界に、同じ…時間にあって超えられぬ壁など…」

ウウウ!と唸りながら牙を食い縛ったクロウリーは満身の力を絞って、ブンと腕を振るった。

「あるっものかっっっ!」

ジョンの巨体が浮き上がり、月に向かって放り投げられた。その身は滝口をこえ、汀の穏やかな草原までとんで、ドウと放り出されてころがった。

しかし

その反動でクロウリ-が手をかけていた岩が崩れ落ちる。

「っ!」

次の瞬間、水の龍にのまれるようにクロウリーは落下し滝壺に叩き込まれた。

「ゴハ!」

強化したからだが容赦なく水圧に押しつぶされ、捻り伏せられる。

激しい渦にまかれて水面に上がる事も出来ず、クロウリーの胸は苦しさに空気を吐き出した。

したたか水を吸い込んだ肺は水を拒否してむせるが、吸い込める酸素はどこにも無い。

無駄に足掻くうち、眼底の奥がしびれるような感覚が突き上げ、体中の力が水に解けると、ほどなく。

クロウリーはゆらりと、水中に漂いはじめた。

弄ばれ、飽きられた贄が吐き出されるように、滝壺から流れ出ると激しい流れに押し出される。

ゴボ…

どういうわけか、自分の躯をすり抜けていく冷たい水の感覚が心地よい。

自分の口から小さな泡が生まれ、ゆらゆらと上にむかって行くのが見えた。

水底からかすかに見える水面が金色を流したよう美しく揺れている。

月の光か。いや

エリアーデの髪…で…あ る


声が、聞こえたような気がした。

  困った男ね。こんな事で死んでどうするの?

エリアーデ…

  まったく、お人好しなんだから

すまないである、エリアーデ

ああ、それにしても

貴女は、いつも本当に…美しいである…な

  バカいってないで、さあ手を…


手?

  手を伸ばしなさい アレイスター


クロウリ-は、金色の光に向かって、ほとんど無意識に感覚のない自分の腕を伸ばした。

自分の手首に見慣れた鈍い腕輪が、水の中でコトンと重く揺れる。

と光が割れてその手が何かに掴まれ、そのままぐんと勢いよく高く持ち上げられたかと思うと、軽々だきとめられ、そのまま地面におろされた。

反射的に酸素を吸おうとする躯は、水を吐きながら激しく咳き込んだ。

「ゴホッゴホッ、ハ、カハッ」

痙攣するように咳き込むクロウリーの背中を誰かが優しく介抱する。

「大丈夫ですかアレイスターさん!」

かすむ視界の真正面には、金色の長いたてがみをそぼ濡らし、たどたどしく人の言葉を話す、美しくきゃしゃな生き物が座り込んでいた。人のようでもあるその足首には、銀色のアンクレットが輝いていた。

苦しい呼吸を続けながら、クロウリーは驚きのあまり、目を見張った。

「…セーラ…であるか。助けるために狼に…?」

獣人は、うなずいた。しかし、既に力は使い果たしているのだろう。そのすがたは再び、可憐な乙女の肉体に戻っていく。

「よかった。間に合ってよかった」

まだ獣のようなその瞳からポロポロと涙が流れる。

「ありがとう。彼を、ジョンを助けてくれてありがとう。アレイスターさん」

抱きしめられようとするクロウリーは、最後の力を振り絞ってそれを拒むと、弱々しく、しかし優しく微笑んだ。

「抱きしめる相手を間違えては駄目である」

「え?」

クロウリーが促すその先に、人の影があった。

「クロウリー!無事なの?!」

「クロちゃーん!もう駄目かと思ったさ」

はしゃいで腕を振るラビのもう一方の肩をかりてよろよろと歩いてくるのは、羊飼いのジョンだった。

急激な変身の後遺症か、ずぶぬれの体は鞭うたれたように傷だらけだったが、それをのぞけばもはや、普通の人間の変わらない姿だ。

「セーラ…様」

振り返ったセーラは、何も言わず、ゆっくりとジョンに近寄った。

おびえながらも、ラビからはなれたジョンが言葉を探す。

「セーラ様、わたしは」

「いいの」

「わたしは、あなたに…」

セーラはそっと細い腕を伸ばした。

「もう、いいの。そばに居てくだされば、それで、いい」

セーラは、静かな強情さでジョンを抱きしめた。

「あなたを…………愛…」

言葉は失われる。

元狼と元嘘つき羊飼いは、一糸まとわぬ人間の姿をさらしたまま抱き合い、いつまでもたちつくした。

クロウリーは、はっと我に返った。

自分を助け起こしてくれたラビとリナリーは、子猫のような輝く目でその光景を見つめている。

「こ、こら!ラビもリナリーも見ては駄目である!」

クロウリーは、赤面しながら見つめる青少年たちを、さらに赤面しながら上着で遮った。

「えええ?クロちゃんのケチ」

「け、ケチとはなんであるか」

「感動のシーンじゃんさ!ヤボな事すんなよ!な、リナリー」

「え?や、やだ。私はそういうつもりじゃ」

「とにかく!二人とも後ろをむくであるうぅ!」

純情男爵の絶叫が、西にかかる月の空に深くこだました。



ーエピローグー

月が、太陽の光に飲まれ、世界が明るくなると様子が一変していた。

「うわあ、きれい」

リナリーが嬉しそうに叫ぶ。

昨夜の地割れで、水源地の貯水は既に半分ほどが流れ出していたが、なおこんこんと湧き淀む事無く、行く筋もの新しい流れとなってきらめいていた。

えぐられてむき出しになっていたはずの大地は一面、再び生い茂り、見事に満開の花と草に埋め尽くされている。

それだけではない。

水源から見下ろす限りの広野が、緑に覆われている。

森の木々も新緑の頃のように瑞々しく芽吹き、水気にみたされている。

枯れ果てたモノクロームの世界が、一夜にして嘘のように豊かに茂っていた。

「何がどうなったのである?」

信じがたい様子で遠方をクロウリーが見渡す。その目で見れば、遥か村の耕作地まで緑に覆われているようだった、

「たぶん、疑似イノセンスじゃないかな。粉々に砕けたあれの力を植物が吸い込んでるんさ。この様子じゃあ、半分ぐらいは村の方まで流れたかも知れないさ」

「だとしたら、作物に異変がおきてるかも知れないであるな」

「回収しなくてよかったのかな、彼女の足輪もイノセンスじゃない以上、調査対象じゃないけど」

ラビは、うーん、と腕を組んだが、まあいんじゃね? と呟いた。

「なんせ粉々だし全部拾う訳にいかねえさ。あんだけ小さけりゃ問題ないだろ。むしろ粉々になってまき散らされた疑似イノセンスは月の出のたびに微量ずつ、その力を発揮するだろうさ。肥料だと思えばいい。日照りの足しになれば、村は助かるさ。

村の連中も植物の生長っぷりに最初は気味悪がるだろうけど、それが日常になればすぐになれっこになる」

「いつか二人の事もそうなるかしら」

リナリーの懸念を聞き、クロウリーはつい振り返った。

ほとんど全壊したシルベリ館の近くに、羊達が集まり始めていた。主人の不在を心配した羊達が柵を越え、狼達の森をくぐりぬけてきたのだろう。

二人は越えられるだろうか、羊たちのように。

慣習や、身分などの見えない柵を飛び越えて、自由に。

「わかんねえけど」

ラビが言葉を濁すが、

クロウリーは「大丈夫である」と呟いた。

「お互いもう、ひとりぼっちではないのだから」

「ふーん?」

ラビがにやにやする

「…なんであるか?」

「いやあ、クロちゃんも立派な大人に成長したなあ、と思ってさ」

「無礼な。私は立派に大人である」

「へへえ、ついこないだも泣いてたくせに」

「ところで、どうしてクロウリーはあんなに彼女と仲良くなったの?」

「え?」

クロウリーの顔から一瞬血の気が引いた。

「いや、実はさリナリー。クロちゃんたら…」

「ちょ、や、やめるである。」

ジタバタする二人を見て、リナリーはふくれた。

「もう。報告書は、二人が書いてね」

「ええええええ?」

「だって、今回私蚊帳の外が多かったんだもの。いいわ、かえったらゆっくり聞かせてもらうから」

バシュ。

軽やかな音を立てて、少女の黒い靴が発動した。

くんと空気を蹴って空を走り出す。

「先に行ってるから。汽車に遅れないようにね」

ラビもあわてて、ハンマーを取り出した。

「ちょっ、リナリー待てって伸!!あ。クロちゃん!乗ってくさ?」

ああ。

と軽やかに答えたクロウリーは、ふと立ち止まり再び後ろを振り返った。

『ごきげんよう、セラスティア マリア シルベリ子爵令嬢、いや』

愛しの狼男ー

そうして優雅に会釈をし、礼儀正しい振る舞いできびすをかえした。


お幸せに、どうか

お幸せに。



ーENDE ー20090918