どうして、彼が兄さんに見えたんだろう。

崩壊が進むホームの最上階で、月明かりを浴びながら、彼の後ろ姿を見かけた時、一瞬『兄さん』と呼びそうになって、私は赤面した。
それから慌てて心を仕切り直して、正しい名前を呼ぶ。
「クロウリー!」と。
長身の彼は、普段見慣れた黒いマント姿ではなく、教団から支給された薄手のインナー姿で振り返り、目を丸くした。
「リナリー、どうしたであるか?こんな夜中に」
それから、長い入院生活ですっかり伸びてしまった白い前髪を無意識に指でかきあげる。
ああ、そうか、その前髪のせいだわ。
以前より増えたその白い髪房が、まるで兄さんの帽子みたいに…。

 

 

Moonlight ramble -月夜に散歩-

 

 

「ねむれないのであるか?リナリー」
クロウリーは心配そうに私を覗き込む。
「ううん。そういうわけじゃないけど。もうすぐ引っ越しだし。ちょっと名残惜しくなっちゃって。それで、ほんの少しだけお散歩。そういうクロウリーは?」
「私のほうこそ眠れなくての夜のお散歩である。どうも自分の部屋になじまなくて。いや、その…居心地はとてもいいのであるが、嬉しくてドキドキしてしまって」
彼は少し頬を紅く染めながら、恥ずかしそうに呟いた。
「そっか。クロウリー、今日退院したんだよね。おめでとう」
「ありがとうである」
クロウリーはとても優雅に会釈する。マントがないから、なんだかとても仰々しく見えるけど、彼らしくてほっとする。
「けど、残念ね。新しい部屋になじむ間も無く引っ越しだなんて」
クロウリーは静かに首を振った。
「どんなに短い時間でも、あれが私の場所である事は確かだからいいのである。それに、これでようやく自分も教団の仲間になれた気がして、本当に嬉しいである。何にも荷物がないのは、まあ、城を出た時から変わらないであるし」
自嘲するように笑いながら、クロウリーは白い髪の伸びた頭をかりかりとかいた。
その細くすらりとのびた白い手首を見て、私は大切なことを思い出した。
「そうだ、わたし、クロウリーに返さなきゃいけない物があるの、ちょっとだけ待っていてね、すぐに戻ってくるから」
「あ、の。リナリー?」
彼の言葉を待たずにきびすを返した私は、階下におりると急いで自分の部屋に引き返した。人々の気配の冷めた静かなフロアを巡りながら、ひたひたと冷たい石の廊下を翔ていく…。なんだか小さな子供の頃のような気分になって。背中がひやひやとせつなくなっていく。
幼い頃には、この場所は何もかもが無愛想で冷たく、何もかもが怖くて、牢獄のように居心地が悪かったけれども、今では目をつぶってでもどこに自分がいるのかわかるようになったし、階段が何段あるのかも体が覚えている。
部屋に戻って、小さな引き出しからソレを取り出すと大切に抱えて再び階上に向かう。
老朽化してひび割れた石壁を横目に眺めながら、一気に最上階に上がると、月の明かりが青白く冷たく差し込み、ようやく閉塞した回廊が開け、空が広がる。
もっとも今はさらにその上に非現実的な真っ白のキューブ(方舟)が浮かんでいて、星空を覆い隠しているけれども。
その白く輝く方舟の下で、クロウリーは静かに月明かりを浴びていた。
その姿は凛としてとってもしなやかに思え、私の心は弾んだ。
出会った初めの頃、実は正直心配だった。私の世界の中で、彼はすぐに喪われてしまいそうに感じていた。とても頼りなくて、壊れそうで気が気じゃなかった。
夜はいつもベッドで泣いている様子だったし、昼間は大勢の人前に出る事も、一人になる事も極端に恐れた。物事を何も知らないし、そのくせ何にでも興味を示すし、すぐ迷子になるしすぐに騙されるし。まるで小さな子供のように目が離せない。
でも、いつも彼は懸命だった。
方舟の中ではずうっと私やチャオジーを守ってくれた。命をかけて、私たちの身を案じてくれた。その強さは私なんか足もとにも及ばない。
そして…そのせいで、長い間、ずうっと目を覚まさないで眠っていた。
一途に優しくて、危ういほど剛い仲間。
ずっと気がかりだった…私の大切な世界の一部。
私は息を切らせながら、クロウリーの目の前に立つと胸に抱えていたその銀色の輪を彼の手の上にのせた。
クロウリーの表情に驚きの色が浮かぶ。
「私の、腕輪!?…である」
彼は驚いた様子で、腕輪を手にとると、しばらくそれを眺めた。それからなれた様子でそれを腕にそれぞれはめた。なじませるように手首をふると、ちりちりと重い金属音が響いた。
「ああ、やはりこれがあると落ち着くである」
ホッとクロウリーはため息をついた。
クロス元帥探索中も片時も離さずに身につけていた物だった。方舟の中でクロウリーが瀕死の怪我をおったとき、手当の為に外し、私が大切に預かっていたもの。
一体どのような因くのあるものなのか尋ねてみたい気もしたが、聞いてはいけないような気もして、口にするのは辞めにした。
「クロウリーが元気になったら返そうと思って。いろいろあったから、ずいぶん時間がかかってしまって、ごめんね」
「とんでもない。ありがとうであるリナリー。もう、とっくに無くしてしまった物かとあきらめていたである」
クロウリーはとても嬉しそうに手首をあげ、腕輪を月明かりにかざした。そうしてしばしそれを眺めていたが、ふと「すまなかったである、リナリー」と、呟いた。
え?
「教団がこんな事になるまで、ずっとのんきに眠っていた私を許してほしいである。婦長さんからいろいろ聞いたんである。リナリーとアレンが本当にがんばって戦って、私たちを守ってくれたと。何の力にもなってなくて、本当にすまなかったである。
リナリー。本当に大変だったであるな。どうか、ふがいない私を許してほしいである。これからはその分まで戦うであるから」
そういうとクロウリーは私の頭に手をのせて、なでなでと優しく触れた。その手がまるで兄さんのように暖かいので、私はちょっと泣きそうになって、慌てて目をこする。
「謝らないで、クロウリー、だって私はね」
もう…ずるいよ。頼りないくせに、カッコいいところで私を女の子扱いするんだから。こんな時にとびきり優しく暖かいなんてずるい。まるで私を孤独から開放してくれた兄さんのように。
「私はクロウリーのお陰で強くなれたの」
あなたが私を守ろうと強くなったように。私はあなたとみんなを守りたかったの。
だから。
「私は、クロウリーが元気になってくれて、本当に嬉しい」

クロウリーの鳶色の瞳に映る自分の顔を見て、少し恥ずかしくなりながら思う。
ここを出て行く事をいつも夢見て、戻らないですむ方法をいつも想像してばかりだった私の、家(ホーム)
名残惜しむ日がやってくるなんて考える事さえ無かったけど。
数日後には私はここを出て行く。
一人ではなく、兄さんや、仲間たちと。
私のかけがえの無い世界とともに。
私の大切な、せ か い。
それは家じゃない、形ある場所じゃない。
目の前の…
だから私は心の底から、告白する。
「クロウリーがまだ私の世界の中にいてくれて、本当に嬉しいよ」
彼がちょっと驚いたように口を開き、牙が白くのぞく。
「私は…リナリーの世界の中にいるであるか?この、わたしが?」
「うん。アレン君もラビも神田もミランダもマリたちや元帥や科学班のみんなもみんな。もちろんクロウリーもだよ…」

 

 

 

 

「……ありがとうである」
長い長い沈黙のあと、始めて出会ったときのように丁寧に会釈すると
嬉しそうに嬉しそうに
私の、ひときわ優しい世界の一部は、快く笑った。
きれいな月明かりを浴びながら…

 

 

 

-ende-2009.5.10