あの夜の事はわすれません。そりゃあたいそう奇麗なレディでした。 

初老のバーテンダーは夢見るようにつぶやいた。

 商売柄、美人にお会いする機会が多いのですがね。
その夜のお客様は、特別美しい女性でした。
一目見ただけで、はっと…魂を奪われるというか。
魅入られて、命を吸い取られるような、
まるで天使…いえ。…深紅の薔薇のような女性で。
お名前も覚えています。
あまり聞き慣れない名前で、とても不思議な響きの…
でも、その女性にふさわしい名前でした。
美しい声で自分からお名乗りになったことを忘れる事はできません。
エリアーデ  と  


 Player Piano -自動演奏ピアノ-



美しい裸婦のステンドグラスを雨粒が激しくたたいていた。
アールヌーボーな装飾を施された格調あるカフェの隅で、琥珀色の照明の中に浮かび上がったひどく古めかしいアップライトピアノが、美しい音楽を奏でている。


初めてこの店にやってきたその男は、注文した紅茶がさめる事も忘れて、ピアノを見つめ続けていた。
年は30歳ほどだろうか、背が高く、細身で気品のある顔立ちだが、どこか不安げな幼さを残している。後ろに撫で付けそこねたような前髪だけが白く、獣のように大きな牙があり、鋭すぎる目の色がとても風変わりだった。
だがバーテンダーは気にしなかった。
仕事柄、客の詮索はしないのだろう。グラスを磨く手を休めずに世間話を続けた。



 ひどく降りますねえ。こんな日はだれでもメランコリイってやつに陥ります。
…そうそう、そのご婦人のことでしたね。
ここは場所柄、社交界(サロン)の話題が聞こえてきやすいところで…
その方が、どういう素性かは存じませんが、噂になっていたのは事実です。
完璧な美しさ、可憐な立ち振る舞い、ミステリアスな雰囲気。社交界にむらがっている男たちは、その方の至福の笑顔を得る為に躍起になったようですよ。
舞踏会の帰りに、そのレディの馬車を毎晩のように薔薇の花で埋め尽した金持ちがあったとか。あるいは、王族のご息女との婚約を破棄してまで、その方に求婚した貴族がいるとか。家財をすべて売り払って大粒のダイヤを捧げ、身を滅ぼした新鋭の作家なんかがいたとか。
夢物語のような噂が毎晩流れ込んできました。
そして、その美しい方はそのどれにも心を動かさなかったというオチがつくのです。
良くない噂もあります。
まあ、どれも聞こえてくるのは酒と煙にまかせたゴシップですがね。
そのレディに近づいた男たちが皆、不慮の事故や事件に巻き込まれて、不幸な死に方をするなどとね。
美しさを得る為に悪魔に魂を売ったのではないかとか。
あまつさえ
彼女が血まみれのドレス姿で立っているのを本当に見たという者があらわれたり。
え?いや、馬鹿な噂話ですよ。特に社交界の花形となったレディには、周りの嫉妬や憶測や、ありもしない噂が憑いて回るものです
とにかく言えるのは、あの当時のここいらの話題は、いつもその美しい方の事で持ち切りだったって事です。 

 その夜が、その方にお会いした最初で最後の夜でした。
いつものように、その夜の恋の相手がみつからぬ社交界帰りの連中が、未練がましく、この店にとぐろを巻き始めた頃合いでした。
どういう気まぐれだったのか、そのご婦人がお店に入ってこられたのです。
もちろんそれまでお会いした事はありませんが、一目で、あの方だとわかりました。
あの噂の、社交界の華だ…とね。
まるで時間が止まったように、店の中にいる者全員の動きが止まりました。
あの方と…その古いピアノ以外はね 

 え?
ああ、あなたもご存知ありませんか?面白いものでしょう?
自動ピアノというカラクリの機械です。
演奏家がいなくても、楽譜を与えればそのピアノ自身が曲を弾くのです。
その美しいご婦人も初めて自動ピアノをご覧になった様子でした。店の中を見渡したと思ったら、並みいる男たちには目もくれずに、そのピアノに興をもたれたように歩み寄りました。
今思えば、店の外に流れ出たピアノの音色に惹かれていらしたのかもしれません 

「ねえ、マスター?」

 美しい紅玉の瞳でピアノをみつけたまま、とても美しいツンと尖った声をあげてあのレディは尋ねました。 

「誰もいないのにどうして曲を奏でるの?」

 私ゃ答えました。
それはピアノの姿をした機械なのです。命ずればお客様の望むままに美しい曲を弾くのですよ
私がそういうと、あの方はどこか哀しそうな優しいまなざしでピアノにふれました。自動ピアノは曲を奏でながら、もちろん同時にその優しい指にも答えます 

「そう、…これは機械なのね。こんなに美しいのに」

 …可哀想にね…
小さな声で確かにそのようにおっしゃったと思います。
ものうげな表情はいよいよ美しく、店の客たちは固唾をのんで見守るばかりでした 

そのとき、店のドアが乱暴に開き、目を血走らせた若者が一人、飛び込んできました。
その手にはナイフが握りしめられていて…
そうして何かをわめきながら店の奥に突進していったと思うと、あの美しい方を刺したのです。
一瞬の出来事でした。
若者は、あっという間に店の中にいた男たちに取り押さえられ、外に連れ出されました。
野次馬の話によれば、どこぞの田舎貴族の息子だったそうです…、おそらく美しいあの方と無理心中をはかろうとでもしたのでしょう。恋は盲目とか、言いますが、無謀な事をするもんです。
店の外に引きずりだされたあとは、そのまま警察につれていかれたか、袋だたきになったのか…。その後の話は知りません。
あの方は…というと。若者が目測を誤ったのか、ピアノのふちに当てたらしく、ナイフはそれて致命傷になりませんでした。が、ご婦人は大変なお怪我をなされていました。ナイフは左腕に深く突き立てられていたのです。
女たちが悲鳴を上げる中、あの方は顔色ひとつかえずに自分の傷ついたお姿を見つめられました。そうして気丈にもご自分の白い左腕からナイフを引き抜いたのです。真っ赤な血がみるみる吹き出てピアノの白い鍵盤を染めました。
あわてて私が駆け寄ろうとすると、あの方は鋭い声で
「近づかないで!」
とおっしゃいました。
「誰も私に触れないで!私にも、私の流した血にも、触ったりしたらゆるしませんわ」
そう言い放ちました。
なんと言うかその様子は、誰にも侵される事を認めない血まみれの誇り高い女神の姿のようで。
噂通り、どんな男にも心を奪われないその方の高潔さと気高さを見た気がいたしましたよ。
その場にいた者、誰一人も逆らう気持ちになれませんでしたとも。
周囲が見守る中、あの方は平然とレースのハンケチーフを取り出して、ご自分の傷を拭い、鍵盤を濡らした血を拭き取られました。
不思議な事に、血は既に止まっておいでの様子でした。ピアノの上に流れた血は、だいぶその鍵盤の奥にしみ込んでしまったと思います。それにピアノには大きな傷跡が残されていました。あの方をお守りした勲章のようにね。
ホラ、そこにナイフに刻まれた傷跡が見えるでしょう?
ご婦人は、鍵盤にしみていくご自分の血を眺め、それから、ナイフの傷跡に優しく触れました。それから何事もなかったように毅然とした微笑みを浮かべて、名前を名乗られると、金貨を一枚お出しになりました。
「申し訳ありません。ご迷惑をおかけしてしまいましたわ。どうかピアノの修理代に」
とおっしゃいました。
「日を改めてお邪魔いたしますわね。いつか又、このピアノに会いに」



それっきり、その方のお姿を拝見する事はありません。
しばらくうちに、社交界からも姿を消されてしまいました。
店に来る客も、そのうちその方の事などすっかり忘れてしまったように別のゴシップに華を咲かせるようになりました。
ですが、
そのピアノのシミも傷もその方がここにいらした事の証なんですよ。
知らない客は気味悪がりますが、
あの方の流した血だと思うと、私にはルビーのように美しい飾りに思えます。
幸いあの方の血がピアノを狂わす事はなく、むしろ、調子が良いぐらいでした。ただ、あれ以来、切ない音色になったように思うのは私がロマンチストすぎるからかもしれません。
最近は蓄音機が流行で、自動ピアノなんてシロモノはとんと見かけなくなりましたが、私はソイツをどうも手放す気になれなくて、今でもこうして働いてもらってます。
このピアノがあれば、又いつかあの方が来るんじゃないかとおもってね。

今どうしていらっしゃるんでしょうなあ。
あれほど美しいレディです。
あの当時は、誰にも心を動かされる事はなかったけれども。
どこか遠い場所で、本当に心から愛する男性に巡り会えたに違いない。
今も、心を許した男性のそばに片時も離れず寄り添っているに違いないと、そんな風に思ったりするのです。

バーテンダーの話を黙しながら聞いていた背の高い男は、ずっとピアノを見つめていたが…
裾の長い上着を翻すとゆっくりと手袋を外した。
男の腕を飾る銀色の無骨な腕輪がゆれてかすかな音を立てる。
彼は、震えながら、鍵盤の上の乾いた血の跡に自分の指で触れた。
そっと優しく、慰撫するように…


それにしても不思議ですね。
なぜ、貴方にはそれが、そのレディの流した血の跡だとわかったんですか?
噂でも聞いた事が?


答えは帰ってこない。
代わりに男のつぶやきが聞こえた。
「こんなところで…会う事が出来るとは思わなかったである…」
そしてかすかに、男が誰かの名前を呼ぶのが聞こえた。
バーテンも知っているその、名前。
すっかり顔の前に落ちて乱れてしまった彼の白い前髪が、気のせいだろうか…さわさわと揺れていた。
泣いているのかもしれない。


ああ、それともー

言いかけたバーデンダーは心の中でつぶやいた。  
 (愛のなせる技…、でしょうかね?)
グラスをすっかり磨き終えたバーテンダーは、小さなグラスに深紅のワインを注いだ。


お茶がさめてしまいましたね。長話につきあわせてしまってすみません。
…それにしてもひどい雨ですねえ。
こんな日は客足も遠のきます。
どうぞ
気の済むまで、ゆっくりしていってください。
これは店からの…いえ
その
自動ピアノからのおごりです。



〈ende〉2009.2.1