体の中で
まだ、たぎり終えていないアクマの血を感じながら、
私は壁に押し付けられた細く堅い木製のベンチに静かに座り、灰色く陰鬱な石の床を眺め続けていた。
その視界の中を、ナースたちが駆け抜けて行く。
通路に張り巡らされ、彼女たちが踏み絵のようにしだいていく石英のタイルには、無数の巻貝たちの化石がとじこめられている。
ほどかれた魔法陣のようなその奇抜な造形をぼんやりとながめるうちに、
私はふと、お祖父様の奇天烈なコレクションたちを思い出す。
それからお祖父様の大きな後ろ姿を。
それから彼の最後の面差しを
いったい、いつの事だっただろうかとぼんやり考える…
大切な人の死を
私が乗り越える事が出来たのは。

 

 

Der Sarg des radiolarian -放散虫の柩-

 

 

「患者が、話したいといっています」
医者の言葉に答える事は出来ず、私はただ白いシーツの上の男を眺めた。
『リチャード カールソンです。よろしく』
昨日、笑顔で名前を告げたばかりのその身は、出会った時のたくましい四肢をアクマにすべてむしりとられて小さくなり、運び込んだとき体中から吹き出していた鮮やかな血は洗い清められて、なにもかも白い包帯で巻かれ、何かの展示品のように丁寧に、ベッドに横たえられていた。
何を言えばいいのだろう。
友達になってまだ一日も過ぎていない、大切な彼に。
何をしてやれるのだろう。
もうすぐ、旅立ってしまう、大好きな彼に。
「…アレイスターさん、そこにいますか?」
うっすらと開けた目は、もはやはっきりとした光を宿しては居らず、それでも私を捜すようにゆっくりとさまよっている。
私は静かに近寄って、その額にそっと手を触れた。
「俺を運んでくれたんですね。アクマ、倒せました?」
「ああ」
彼が笑う。
「よかった、俺のせいでアレイスターさんもヤバイ事になったんじゃないかと思って、心配だったんです。足手まといになったんじゃないかって…
…あは、俺の方はもお、足も手もないけど」
私の貌は強張ってしまって何の表情もうかべる事が出来なかった。どこか遠い風景を小さな窓から眺めるような非現実さで自分の心をささえているような、妙な気分だ。
いつものように他者からは怖く見えるであろう牙の隙間から、出た言葉は短かった。
「すまん」
彼が穏やかに否定する。
「なに謝ってるんですか。やったのはアクマの野郎で、助けてくれたのはアレイスターさんです。やられたのは俺が油断したからです。死ぬのは…」
彼は静かに目を閉じる。堅く止血されている体の切断面からにじんだ血液が、彼の白い死に装束を早くも染め上げ始めている。
「死ぬのは、俺がファインダーになった時から決まってた事。いつかこうしてアクマにやられて死ぬってことは俺自身わかってたんです。自分で決めた事です。
なに一つアレイスターさんのせいじゃありませんから…」
「もうだまれ」
呼吸が乱れ始めている事に 私は耐えきれなくなり始める。
「俺、強くてかっこいいいアレイスターさん大好きですから。だから…お願いだから、どうか俺らの命のことなんか気にしないでください。アクマを壊す為にはどんな手段も使ってください。もっともっと残酷になって強くなって…できれば俺の事なんか忘れてちゃってー」
「勝手な事をぬかすな」
私は苦い味に満ちた喉を押し開いて、かろうじて言葉を吐き出した。
もう限界だった。心が折れぬように発動を無理に維持していても、視界がにじむのを止める事が出来なくなり、前髪が額に落ちかかる。
「友達を忘れたりなど…せんわ」
「…泣いてるんすか?あはは、まいったな」
「泣いてなどおらん」
浅い息が、冗談めいて弾み、やがてかすかに震えた。
「俺、心配なんです。アレイスターさんめちゃめちゃ強いけど、優しいから。優しすぎるから。他の人間の事気にしすぎるから、これから先、もし…」
「心配いらん」
なんの根拠も無く、だが私は胸を張る。
「一体私を、わたしをなんだと思っている」
「俺らのたったひとつの…『希望』ですよ」
彼の、乾いた唇がかすかに笑った。
「でも…やっぱり、嬉しいかな。…友達…な…んて」
それから不自然に大きく息を吸うと、静かに吐き出し、動かなくなった。
大切な友は、ただの冷たい肉のかたまりに、なった。

 まるで体中に浴びた彼の血が、重い鉛となって粘りついているように感じながら、私は部屋の外に出る。
視界の中を、ナースたちが患者の乗ったストレッチャーを運んでいく
生と死のパレードが通り過ぎていく。
…いくつもいくつも

「クロウリー」
聞き慣れた声がして振り返ると、白い髪の少年アレン ウォーカーが立っていた。
もう何日もあっていないような気がしたその懐かしい顔に、私はどのような眼差しを向けているのだろう。
少年は、いらだちとも恐れともつかぬ表情を浮かべている。
爆ぜる息を抑えながら、少年は死刑宣告を問う罪人のように怖気だった小さな声を発した。
「彼………カールソンさん。助からなかったんですか?」
私が言葉を選ぶ事が出来ずにただうなずくと、少年は唇を噛み締め、母親から引き離された瞬間の赤ん坊のように、見る間に顔を歪めて鼻を啜り、唇のはしを引きつらせてむせび泣き始めた。
「っふ…ううう」
ぽろぽろと涙をこぼし、私の胸にしがみつき、両の拳を握って私の肩を弱々しくうちつけた。私の団服を紅く染め上げたカールソンの血が、固まり始めながら少年の滑らかな頬に黒ずんだ汚れとなってこびり付くのもかまわず。
私よりはるかに強い彼でさえ、慣れる事はないのだ。
人の死というものに。
その愛しさ(悲しさ)に
私はアレンをしっかりと抱きしめながら、
思う。

哀しみは、乗り越えなくてはいけない。
弱いからこそ。
優しくありたいからこそ。
でも今は…
せめて今だけは。

少年の涙に溶かされるように
私の閉ざされていた喉がようやく開き、慟哭がほとばしる。
時の果てに冷たく凝った何億もの放散虫たちの柩の上に立ち尽くし
…小さな亡がらを踏みしだき
私たちは哭き続ける。

 

 

…私たちは、
互いの命の暖かさに、かろうじて救われながら。

 

 

 

<Ende>2009.3.29