距離にして、二日
アレンをおいたまま、
アニタの船が大陸を離れてから

ずっと、
リナリーは、泣きつづけていた。
ラビは、いら立ち
ミランダは、ただ 困惑し、
ブックマンは沈黙していた。

クロウリーは静かに
リナリーから少し離れた場所に、ずっと立っていた。
一度も涙を見せることなく。

 

 

Intermezzo (感喪曲)

 

 

 

一日の終わり
天を突くメインマストの先端に片足で立ち、クロウリーは空を見渡した。
この数日、夕暮れになるとクロウリーはこの場所に登って時間を過ごすようになっていた。
何度見ても見飽きることのない空と海。
天蓋は星のあかしに円く膨らみ、水平線は空と水を交えること無く、完璧な弧を描いて大輪にむすばれている。
ここから見える風景は、この世のモノとは思えない。
空宙の中心の真下。
それは、かつて陰気な城の窓から見上げていた、切り取られた空ではない。
星と太陽風のはて、大気の水底の何一つ欠けることのない世界。
いや。
欠けたものはある。
陸地においてきてしまった大切なもの
だが大海のまん中のちっぽけなクロウリーには どうしてもそれを見つけることが出来ない。

ビヨオオオオオォォオオ ヒュリイウウルウ・・
新しいマントは潮風にひるがえり、心地よい風斬り笛をならす。
途切れることのない水平線を見渡しながら、
太陽が死に逝く方位を見定めて、
クロウリーは、わずか数インチのマストの先端にちょんと座った。
そんな芸当は普通の人間にできることでは無いが、
出航してからこっち、発動し続けているクロウリーには何の雑作も無いことだ。
船の見張り台よりもさらに高く足場のないメインマストの先端までは、慣れた船乗り達もようようには登ってこない。

 

 

昼と夜を同時に見る場所で日没が始まる。
昼の終わり、夜のはじまり。
太陽が西の水平を朱に染めるうち、月が東の水平を藍にひたす。
天頂は黄昏色にせめぎあいながら、銀の大河を流しはじめる。
「・・・きれいである」
何時の間にか発動のほどけたクロウリーは、誰にいうわけでなく、呟く。
その美しさに、涙が溢れてくる。
クロウリーは、自分の瞳が涙で濡れるを感じながら、少しだけ安堵する。
この場所でなら美しさのせいにして泣くことができる。
それに、
まもなく陽が落ちれば、闇色の衣におおわれた自分を、誰も見い出すこともない。
この姿を見られることもない。
行き場のない船の中で、クロウリーが一人になれる場所はここだけだった。
・・・皮肉なものだ。
かつて、一人になりたいなどと、思ったことはなかった。
独りであることほど辛いことは無かったはずなのに。

 

 

アレンを失った時。
リナリーは涙を流した。
ラビは、いら立ち
ミランダは困惑し、
ブックマンは沈黙した。

自分はここで泣いてはいけないような気がした。
だから、泣かなかった。
こんなに哀しいのに。
辛いのに。

 

 

「ああ、こんなところにおったか、アレイスター」
ふいに後ろからブックマンの声がした。
老人はいつのまにかマスト下のロープに乗って、こちらを見上げていた。
マストに鍼をうち、それをつたって器用に登ってきたらしい。
何とも身軽な。
老人とはいえ、エクソシストであり、裏歴史をきざむブックマン一族の長、手練だけのことはある。
クロウリーはあわてて、袖で涙をふき、顔をそむけて言った。
「なんだ、なにか用か?」
「いや、たいした事ではない。夜が長うて間が持たぬゆえ、チェスでも一指しどうかとおもうてな」
と、いいながら、ブックマンはクロウリーを見上げた。
クロウリーはブックマンが持ち前の観察眼をはたらかせて、見すかしているような気がして、慌てて空を見上げた。
「チェスか。いいな。ではすぐおりよう。先に下にいってくれ」
「おや?」
ブックマンはすこし悪戯そうな声をあげた。
「もしかして、おぬし泣いておったか?」
クロウリーは身をこわばらせた。
「な、泣いてない!」
「ほほう」
「な、なん・・だ・・」
さらに声をあげるブックマンにびくつきながら、ぐいぐい袖で顔をこする。
白く長い前髪が、涙で頬にへばり突くのを必死でかきあげる。
「おぬし、発動しておらんのじゃろう?ふりをしてもバレとるぞ」
恥ずかしさに、耳が真っ赤になる。
「う、うるさい・・である!」
「やはりな」
ブックマンは少し微笑みながら目線を少しおとし、水平線に沈んだ最後の陽光を見遣った。
「なるほど見事な日没じゃ。心があらわれるようじゃの。
涙ぐらい出てもおかしくはない。おぬしのような物見高い者なら、なおさら。
まあ、わしほども歳を重ねると、モノに擦れてしまっての。なかなか出来ぬ芸当かもしれん。
不粋なことをいうてわるかったの。
許せ。わざとではない。
じゃが、まあ少し安心した。少々おぬしの様子が気になっておったので」

ブックマンは、ロープの上についと立つと、懐から煙草をだし、マッチを出してバランスを崩すこと無く火をつけた。
「イノセンスに身をゆだねた姿を人に晒すのは、おぬしは好まぬと思っていたが・・・
アノ戦いからこっち、船員どもの前でもずっと発動しつづけておったようじゃからな。アクマの姿がなくなってからも、おぬしが猛り続けているのは知っとる
なぜそのような無理をするのか 怪訝に思っておった」
「そ、それは、その。アクマの襲来を、警戒して-」
煙草の先に火がともり、紫色の香ばしい煙りがクロウリーを微かにあぶった。
「弱気をみせとうないのじゃろう?リナ嬢に」
図星を当てられて、クロウリーはうっとつまった。
「発動しつづけていたのは 虚勢をはりやすいからであろう。
リナリーだけでない。ラビの前でも
いや。
この旅の連れ合いすべての前で おぬしは無理をしておるように、わしにはおもうとる」
「わ、私は・・・無理なんか・・・」
クロウリーは言葉を探した。
「私・・
だいたいわたしは・・泣いている場合じゃないのである。もっと強くならなければ。
つよくなってリナリーやラビを護ってやらなくては。
だって、
わ、私はリナリーやラビよりも、ずっと、ずっと大人なのだから。
だからもっともっと・・・強く。
アレンが、リナリーたちにそうしていたように。
だって、アレンは・・あんなにまだ、子供だったのに・・
わ・・私は、もっと・・もっと・・も・・うっ・・く・・」
話始めると自分の中でも言葉がほぐれ、止まらなくなった。
懸命に話すうちにどういうわけか、クロウリーの目には涙がボロボロとあふれだす。
「?・・なんで、涙が止まらないんであるか。
私は・・・・アレンのかわりに・・・・・
・・アレ・・ン・・・っぐ、
泣いてはダメである。私は・・ほんとは」
空は藍に染まり、宵の明星に従う真砂の星達が姿をあらわしはじめる。
ブックマンは静かに呟いた。
「むしろ逆では無いかな」
「逆・・?」
ブックマンは、わずかにうなずいた

「・・・たしかに戦いにおいて 強さは必要不可欠なものじゃ。
心の強さ、肉体の強さ、力の強さ。
じゃが、強さとは同時にもろさでもあるのじゃ。
強くみえるものほどくだけやすい。
無理に勢をはったところで、ほんとうに強くはならぬ。
むしろ砕けやすくなる。
笑いたい時に笑い、泣きたい時に泣く。
怒りをあらわにし、悲しみにくれる。
その柔軟な心も、時に粘り強い力を孕むものじゃと、わしは思うがの。
それに
わしから見れば、おぬしもまだまだ小さい子供のようなもんじゃ。
少なくともワシの前で大人のふりをするのは無意味というものではないかな?」
そう言われたクロウリーは
マストの先に座ったままついに顔を被い、はらはらと泣きはじめた。
涙が顎をつたってポタポタと甲板に落ちていく。

「本当は・・か・・かなしいのである・・かなしくて哀しくて・・・
どうしてわからないのである、ブックマン。
私には、リナリーの涙を止めてやることができない。
ラビのいら立ちを止めてやることができない。
・・・アレンは・・もう・・帰ってこない。
私はなにもできない。
私はアレンに、なにもしてやれなかったんである」

クロウリーは静かに、ただただ泣き続けた。
ブックマンは、黙って一本まるまる吸い終わるほどの長い時間煙草をくゆらしながら水平の先を眺めていた。
「そうじゃの。
・・・・あやつが生きているにせよなんにせよ。
涙を流してやることも手向けかも知れぬ。
じゃから、泣けるうちは泣いたがよかろう。恥ずかしいことでもなんでもない。
おぬしはわしらのように、掟や枷が在る身でなし。
そもそも
おぬしの強さはもっと別の場所にひそんでおるようにおもう。
涙で緩むようなモノではないと思うがの?」
「別の場所?」
顔じゅうグショグショのクロウリーはたずねた。
ブックマンはその問いかけには答えず、吸い終わった煙草を懐にしまいこむ
「さて、夜は長い。
泣くに飽いてからでもおりてくるがよい。チェスはそれからでもよかろう。わしは気が長いのが取り柄じゃからな」
老人はひらりとロープをおりた。
クロウリーの涙は当分やみそうもなかった。

 

 

音もたてずに甲板に舞い降りた老人は、今まで微かに浮かべていた笑みをけし去ると無表情に歩き始めたが、ふと足を止めた。
「・・・立ち聞きしておったか」
「ああ・・」
マストの影から、真っ赤な髪の少年が姿をあらわす。
「サンキューな、じじい。クロちゃんの様子は俺も気になってたんさ」
ラビは いつもエクソシストたちに見せる微笑みとは異なる、自嘲ぎみの笑顔でつぶやいた。
「勘違いするでない、ラビ」
ブックマンは自分の後継者に釘をさした。
「あやつの為にしたことでは無い。
剛木ほど風に折れるの例えもある。
あやつの真の強さが、虚勢で折れることになっては、後の戦いに不利とおもうたから諭したまで。
これからの厳しい局面に あの戦力は不可欠じゃからの。
おまえこそ、余計な物思いに捕われるなよ。
何度もいうが、われらはあやつらの味方ではない、のだから」
「・・・わかってるさ」
少し躊躇したかのようなわずかな間をおいでラビはそういった。
彼の師匠たる老人は、冷徹な眼差しで少年を見据えはしたが、それには言及せず、船室にむかっていった。

 

老人を見送ったラビは一人呟く。
「・・・・それでも助かったさ。リナリーには泣くな!っていっちまったのに
クロちゃんには泣いた方がいいなんて、ややこしいこと言えないからな」
ラビは遥かマストの先のクロウリーを見上げた。
ここからでは彼が泣いているのかわからないが・・・
泣き虫のクロウリーのほうが、よっぽど彼らしい。

自分もあんなふうに素直に笑ったり泣けたりできたら・・・
「・・・・味方じゃない。・・・仲間ではないか」
それでも今は同じ戦いに挑む戦友だ。
アレンがそうだったように。
きっとアレンもそうするから。
だから・・

 

 

 

距離にして、二日
アレンをおいたまま、
アニタの船が大陸を離れてから・・・

ようやく
リナリーは、涙を止め
ミランダは、祈るようにとぎすまし
ブックマンは、陽気を粧った

この先には壮絶な戦いがまっている。 

だから・・・

ラビは、ただ静かに待ち続けた。
クロウリーが、星空からおりてくるのを、
いつものクロウリーが帰ってくるのを
いつまでも待ち続けた。

<ENDE>