-11ー
満天の星がかすむほどに輝く望月を まるで一息、飲み干すように黒い大きな影が立ち上がる。
シルベリ館の殻を破って生まれ出た巨大な獣は、戦う相手を見失っているのかよろよろと歩き出した。
オオオオヲオオオオオオオオオオオオオッ
獣の咆哮に震撼する大地をクロウリーが一直に奔り出ると、夜の太陽に照らされ夜露を帯びた草原は瞬気のうちに蒼く香る。
クロウリーの真正面に彼は居た。
もはやジョンの体は、山ほどにもふくれあがり、銀色の剛毛に覆われた四肢は巨木のように節くれて、背骨のそれぞれは発達しすぎた犀角のように皮膚を破って突き出すと、まるで甲殻で作られたの翼のように天に向かって開いた。
その成長に追いつく事の出来ぬ皮膚が節々で裂け、血の呪印のような赤い紋様を描き流す。鋭い爪は鋼の楔のように鈍く彼の十指の先を貫いてねじくれ、なお成長していた。もはや持て余す巨体に敏捷さはない。だが、その質量は刻々とまし、一つ歩くごとに大地が激震し、月に輝く汀が波たちあふれた。
その姿はもはや人間ではなく、狼ですら無い。
バケモノそのもののように、神の産物ならざる悪性兵器=アクマをしのぐほどに禍々しく魔黒のごとくに大きく育っていく。
それでもなお、月の光は容赦なくジョンの身体に注ぎ込まれ続けた。
もはや人ではない哀れな生き物の首には、100年の間噴泉に隠されていた巨大な軛(クビキ)が、罪の縛めのごとく食い込んで青白く輝きを放っている。
のろのろと地を見下ろしたジョンは、その方向を変え、水源の岸に沿って歩み始めた。
「どこへ行く!わたしが相手だ、羊飼い!」
クロウリーは、彼の行く手の真正に立ち塞がった。
しかしもはや正気を失っているとしか見えないその目には映らぬ様子で、怪物は動きを止めようとしない。
踏みしだかれる寸前で体をかわしたクロウリーは、一足にその躯に駆け上がると全身全霊を込めてその獣じみた頭蓋に強い蹴りを入れた。
ジョンの動きが一瞬留まり、ぎょろりと紅く汚れた目がクロウリーに向けられる。
しかし、もはやその体格には歴然と差がつきすぎていた。ジョンは乱暴にクロウリーの身体をわし掴むと思い切り払いのけた。
ズンン!
クロウリーの身体が軽々く吹っ飛び、地面を陥没させるほどに強く叩き付けられて、その穴からゴムまりのようにはぜ上がり、落ちる。
「ガッ!ゲホッ」
強打された肺がつぶれて、腑が破裂し、血反吐がほとばしった。
躯の骨という骨が聞いた事もないような嫌な音をたてて、引き裂かれるような激痛が幾重にも襲う。
しかし、それはつかの間、さんざん飢えてきたイノセンスがようやく得たアクマの血を糧に熱を帯びて、躯を巡り、全細胞を無理矢理沸騰させて自己修復を強いる。
疼くような感覚に、クロウリーはギギイと牙を噛んでならした。
「クロちゃん!!大丈夫か!」
数秒遅れてラビが駆け寄ると、クロウリーは寝覚めが悪い朝のような不機嫌さでむくりと墓穴からその身を起こし、何事もないかのようにゴキゴキと首をならした。
「クソッ、ヒトをゴミのように投げ捨ておって!」
「どういうつもりなんさ、あいつ…てっきり俺らとやり合う気かと…」
「一体どこに行く気だ…」
力の制御が出来ぬ様子で苦しみながらも、なおもジョンは一直線に歩みを進めていく。
その後ろ姿を見送るクロウリーは、その行く手の暗闇を獣のように見渡す目で眺めた。その姿が向かう先、森を超えて見下ろす遥か谷間の暗闇の先に、かすかにともる灯の群れが見える。
クロウリーは、はっとして身を強張らせた。
「いかん!」
「どうしたさ?クロちゃん」
「奴が向かってるのは『村』だ」
「マヂで?」
ラビが顔色を変えた。
「まさか村を襲うつもりなんじゃ…」
「いいや、あの男。村ごと『伝説』を消す気だ」
地を踏み鳴らしながら、巨大な異形は草原を抜け、谷へ下りようとしていた。
「第二開放!」
ヴン!と柄をならしながら、ラビの腕が掲げるハンマーが巨大化するとその周囲に自然のエレメンツをしめす印が踊り始める。
「雷霆回天!天判!!」
天の判を打ち抜き、大地を叩くハンマーが、稲光を帯び、野擂りのような音とともに矢のように獲物にはしる。
雷は荒くねじられた刺草の縄のようにささくれながら、巨体に襲いかかり、縛り付けるようにそのすべてを覆い尽くした。
一瞬、悶絶して躯を硬直させたジョンの動きがとまる。
「止まれ!話を聞けって!ジョン!」
バウン!
蠅をおうように腕を震ったジョンは、まばゆい雷をはじきとばした。
「チイ、効かねえかっ?」
振り回した巨大な爪が勢い余って大地をかきむしるとそのままえぐりとり、天に投げ放つ。
「へ?」
思わず見上げた空に浮き上がった土石は、すぐに引力に捉えられ容赦なくラビの躯に降り注いだ。
「わわわあああ」
「くっ!」
クロウリーが奔る。紅い手甲を纏ったそのしなやかな腕がかろうじてラビの躯をさらった瞬間、巨大な岩がその場にめり込んだ。
ラビが青ざめる。
「ひえええ。ありがとクロちゃん、ペチャンコになるとこだったさ」
「油断し過ぎだ、馬鹿者!」
ぐおおおおおおおおうううおうううう
邪神のような狼はその力を持て余すように唸り声をあげると、力任せに大地を叩いた。地面にめり込んだ巨大な爪から迸る光が大地を劈き、いとも容易く切り裂いていく。
その一薙ぎで巨大な地割れがはしり、谷へ向かう縁がもろもろと崩落を始め土砂崩れを起こして切り立つ絶壁となった。流れる道筋を失った水が鉄砲水となって濁流し、断崖からほとばしり出す。
しかし、そんな事にはおかまいなしに、上体を起こしたジョンはその先=人の住む土地をにむかい続ける。
「くっそお、聞く耳もたねえか。こうなったらコンボ判で」
「駄目だ!衝撃で奴が奈落に落ちる!」
「けど、奴を倒さねえと、このままじゃ」
「助ける!と約束したのだ」
ラビはクロウリーの顔をまじまじと見つめた。
「女性との約束を破る訳にはいかん」
「でもあいつ、もはや怪獣だぜ?なにか手だてがあるんさ?」
しゅうう、と牙を噛み締めたまま、クロウリーは気を吐いた。
「奴の躯を攻撃してもらちがあかん。あの首の輪を破壊する。飛ばせ!小僧」
「よっしゃ、思いっきりいくぜ?クロちゃん」
「頼む!」
「どおりゃあああっ」
巨大なハンマーを、ラビは軽々と持ち上げ、
とん、と高く跳躍したクロウリーにむかって目一杯にスイングした。
空中でハンマーの打面を強く踏み込んだクロウリーは、そのまま高く跳ぶ。
「がんばれ!クロちゃん!」
ラビの叫ぶ声がみるみる背後に退いていく。
クロウリーはジョンの翼のような醜く巨大な背骨に着地すると、大口をあき、いまだに名を授けていない自らの牙で銀色の巨大なリングに噛み付いた。
それはあまりにも単純極まりない攻撃だが、その気になればアレンの左腕(クラウンクラウン)さえ噛み砕けるそのイノセンスにとって、最も直接的で効果的な攻撃だった。まして人の手になる疑似イノセンスごときが神の力に敵うはずは無い。
ミシミシミシ
氷が割れるような不吉な音が響き、青白く輝く金属隗に牙が食い込み始めた。
しかし、異変に気がついたのか、ジョンが躯をねじり、クロウリーを振り払おうとは激しく上体を揺すり始める。
「ぐ、くううおお」
激しく揺すぶられたクロウリーは振り回され、牙の力だけで必死にしがみついたが、しかし、そのすざまじい遠心力で躯を引きはがされると空中に吹っ飛んだ。
「くそっ!」
再び大地に叩き付けられる衝撃を覚悟した彼だったが、落下することなくふわりと抱きとめられる感覚に驚いて振り返る。
黒い靴(イノセンス)で空を舞う美姫は、快く笑った。
「お嬢ちゃんに抱っこされるのも悪くはないでしょ?クロウリー」
「リナリー!」
「遅れてごめん。彼女は安全な場所に避難させたから、もう安心よ」
そのとき、横殴りにイノセンスの光柱が吹き上がった。
「満!満!満!!伸!伸!!」
ラビが振り下ろすハンマーが袈裟懸けに振り下ろされ、巨大な首の輪を激しく叩いたところだ。
ビキキ!
巨大な銀色の枷に刻んだクロウリーの噛み痕からかすかなヒビがはいり、ハンマーに砕かれて、器物に充蓄されていた月のエネルギーが蒸気のように激しく吹き出し始める。
さらに横殴りにもう一発。
今度はその狼神の躯の正面にあたり、躯は大きく後退して、崖から引き離され、踏みとどまった踵が水際でしぶきをあげた。
「よっしゃ、これで、バンジージャンプは 無しさ!」
があああああああァア…あァ
ラビを追いはらおうと躍起になっていたジョンが躯を強張らせ、ひときわ苦し気にうめき声を上げた。どうやら体内潮汐の激変にその肉体が追いつけなくなり始めてるらしい。魔物のように変貌を遂げたその甲殻がボロボロと崩れ始める。
「リナリー!もう一度奴の背中に!」
「わかった」
再び舞い降りたクロウリーは、灰色の毛皮にしがみつくと、満身の力を込めて疑似イノセンスに食らいつく。
ミシミシミシギコゴゴバキキ…!ガッガッガガガ!
バシュ!!
ついにクロウリーの牙が肉を食いちぎるように貫通し大きく金属片をむしり取った。と、均衡を失った疑似イノセンス全体に硬化ガラスのそれのようなハニカムの亀裂が奔る。
「今さ!!」
「ええ!」
ほぼ同時にリナリーの踵とラビの鉄槌が炸裂する。
ガ………シャン!
星のふるような鈴音がひびいき、一瞬夜空が昼のように照るほどの光を放ちながら、ジョンの首の枷は粉々に四散した。そのとたん、ふいに力を失ったその巨大な怪物が悶絶し萎え始める。
「やったさ!」
ラビは思わず叫んだ。
しかし…
狼の躯はよろめき、サイズを縮め、人間らしい特徴を少しずつとりもどしながらなおも歩き続ける。
「羊飼い!正気を取り戻せ!ひ つ じ か い!」
首にしがみついたままのクロウリーは懸命に叫び続けた。
だが、怪物は…壊れたおもちゃのようについに強張り、ゆらいだかと思うとバランスを失って足下に出来たばかりの濁流に傾き…やがて。
「クロウリー!」
「クロちゃん!」
壮大な波しぶきをあげて水のほとばしりに落ちた獣の姿は、あっという間に滝の向こうに、消えた。
首にしがみついたままの、クロウリーとともに。