村から森へ入る途中の崖の上に羊小屋はあった、

羊たちの眠る小屋の隣の、納屋ほどのあばら屋に招かれたラビとリナリーが入り口で最初に見たのは、狼に無惨に食い殺された一頭の老羊の死骸-というより残った頭と肉皮と骨だった。

思わずリナリーが『う』と口を塞ぐ。

ラビも、やはり気味悪そうに口元をゆがめたが、怯まずにかがみ込んで、その死骸を覗き込み、食い散らされたその咬み痕を指でなぞった。

「こりゃあ酷いさ。狼にやられたんか」

「ああ。そんなのは日常茶飯事さ。今夜も数が足りないから探してたんだが、ついさっき残骸を見つけた。埋めてやらないと可哀想だから、皮だけでもと思って,森からずうっと引きずってきたところだ」

そういわれてみると、納屋の周りにはいくつかの粗末な十字架がしつらえてある。

「全部、羊…の墓なんさ?」

ラビが厭な質問をすると羊飼いは、重い口で「…いや」と言った。

「あんたらみたいな無謀な奴らも、たまにはいるからな」



招き入れられた粗末な小屋の中は、わずかな生活用品と農具や穀物、羊毛刈りの為の大鋏や、羊毛の束などが山ほどつまれ、粗末なテーブルと椅子と簡易なベッドだけが、家具らしい顔をしておかれていた。羊飼いの生活がつつましく、それどころかまったく豊かでない事が伺い知れる。

青年は、水差しの水を海綿に含ませるとラビの咬み傷を洗い、薬草らしきものを貼付けた。傷に滲みるのか、ラビが一瞬顔をしかめる。

「イテテテ、しみるしみるう」

「我慢しろって。狼に腕をもっていかれなかっただけ幸運だ」

青年は、新しくはないが洗って清潔に保たれている古布を細く裂き、ラビの腕に巻き始めた。

「すまないさ」

「何、たいした事じゃない。生業柄、怪我にはなれっこでね」

「いや、飲み水にもこまっているようなのに、貴重な水をつかわせちまって」

ラビの言葉に、一瞬青年の動きが止まったが、聞き流すように言葉を返してきた。

「確かに、骨にヒビも入ってなさそうだが、肘の腱が傷つけられている。この薬草はよく効くけど、数日腕は固定して動かさない方がいい。…えっと」

「彼はラビ。私はリナリー リー。私たちは、狼男の噂を調べにきたの。ありがとう。助かったわ」

少しほっとしたリナリーが丁寧に頭を下げ、握手を求めるように腕を差し出した。

青年は求められるままに握手し、うなずくと

「あんたらのことは昼間、村で聞いたよ」と答えた。

「だから、ずっとあんたらを捜していたんだ。満月の夜は特に危険だからな」

「狼男が出るから?」

羊飼いは、真顔でうなずきながら訂正した。

「狼、女だ。今の御当主のセーラ様はまだお若いお嬢様だよ。

お名前はセラスティア マリア シルベリ様。とても美しい方だ。

セーラ様は、以前から森の奥でひっそりくらしてるんだが、満月の夜には理性がなくなって狼そのものになってしまう。代々そういう呪いにかかってんだ。

セーラ様も先の当主様がなくなってから、その呪いを引き継いだらしく、狼になった。

月の光がセーラ様を狂わせるのさ。光を浴びると巨大な牙と爪と、すごい力と素早い足をもつ怪物になって、獲物を探して森中を荒れ狂うんだよ。狼と同様。

お気の毒に。

羊だろうが、人間だろうが、村の外に出ればたちまち狩りの獲物にされてしまう。

だが、普段は襲ったりしない。彼女の館に近寄らなければ怖い事もない。

この辺の連中はみんな知ってんだが、よそもんは…失礼。外から来る人は知らずに森に入ったりするから。時々事件になる」

「彼女が、狼になるのを見た事があるの?」

長い間、答える事を迷っていた彼は、後ろめたそうにうなずいた。

「…ああ、何度か、見た事がある。それは恐ろしい姿だったよ。

とにかく、そんなわけで、羊を探すついでに、あんたらも探してた。無事でよかった。いや……すまん、連れがいたんだっけ。

森ではぐれたって言う友達は、可哀想だったな。たぶん、もう-」

「大丈夫さ」

話を聞きながら、部屋の中をうろうろと歩き回り、農具などを悪戯していたラビは

とても愛想のいい営業用の親し気な笑顔を久しぶりに浮かべていた。

「クロちゃんは、ものすげー強いからただの狼なんぞにはやられないさ」

「わからない男だな!あれはただの狼じゃないぞ」

「とにかく!銃と火薬をかしてもらえないか?このままじゃ、クロちゃん探すのも森を横切るのも難しい。あんたのその話は興味深いけど、俺ら急ぐんさ。

なに、心配しなくても、銃は返すし、礼はちゃんとするさ」

ラビの言葉には珍しく棘があった。クロウリーの事を心配するあまりイラついているのだろうかとリナリーは思ったが、なぜかラビは妙に落ち着いた様子にさえ見える。

「ラビ。ちょっと失礼よ!」

リナリーが少しあわてて、口を挟む。その目はラビに向かって意図を問いかけるように瞬いたがラビは気がつかないようにうそぶいた。

「ああ、すまないさ。でも事実をいったんだ。クロちゃんはぜってー食われたりしない。何せ、神の使徒(エクソシスト)だから。狼男だって、敵わないかも」

青年は少し驚いた様子でラビを凝視した。

「エク…あんたたち…もしかして黒の…?」

「知ってるの?」

リナリーが問いかける。

「え?ああ。いや旅人から以前聞いた事があって。科学的に調査している大きな組織があるらしいとか。そうか、そうなのか。

あんたら本気で、狼男を捕まえるつもりなんだな?」

青年はしばらく思案していたが、決意したように立ち上がった。

「…なら話は別だ。銃だな、まってくれ、今すぐに」

「あんた名前は?」

ラビに言葉を遮られた青年は一瞬ムっとして口をつぐんだが、後ろ向きに、農具のつんである棚を探り始めると、長い時間ののちに口を開いた。

「俺はジョン。ジョン オービス(羊飼いのジョン)と呼ばれてる。正式名じゃない、つまりはただのジョンさ。見ての通り、羊追いだ」

「家族とかはいないんさ?」

ラビが再度、小屋の中を見渡す。

ジョンは棚の上から傷だらけの古ぼけた銃を引きづり出した。この地方の羊飼い達が使う、杖を兼ねた独特の長銃だ。

背中を向けたまま、彼は銃を見つめて言った。

「孤児でね。家族も恋人も、それに友達も羊しかいない。いってみれば…一匹狼だ。

まあ

村の連中と仲良くしたいとも思わないんだがね。」

銃を抱えたジョン オービスは振り返ると、ラビとリナリーに銃口を向けて、いきなり引き金を引いた。




さながら大蝙蝠のように闇を裾衣に捉えて、枝から枝へと跳躍するように移動していたクロウリーは、周辺で一番高く聳える木の梢の先に器用に留り、ツンと立って、周囲を見渡すように目を細めた。

かなり薄くなってきた霧の地平の先に、かすかに月明かりを映す細い水の流れがきらめいて見える…。

クンと嗅げば霧靄のくすぶった匂いとは異なる清流の水気の馨しさも掴む事が出来た。

『シルベリ館(やかた)なら、あの谷の水源のすぐそばだが…』

クロウリーは、昼間の農夫の言葉をおもいだしていた。

「ふむ、水をたどれば源に出るな。ひとまず目的地を目指すべきか」

ラビ達も最後にはあちらを目指すだろう。合流するにはさがしまわるより、その方が手っ取り早い

クロウリーは、出発のさいにあずかったアクマの血のアンプルをポケットの上からそっと抑えて確かめてみた。

なりたての初期とは異なり、今の彼はイノセンスをある程度自在に発動する事が出来る。制御も出来るしアクマの血が無い場合もそこそこの維持は出来る。

だが、先ほどのひと暴れで牙(イノセンス)が渇き、血を欲しているのをクロウリーは躯で感じていた。肉を食いちぎられて大きく開いた腕の傷も完治できず、どす黒い静脈血が上着から染み上がって,ズキズキと痛みを訴えている。

だが、まだ今は飲むべきではない。

おそらく、今回アクマそのものに遭遇する事は無いだろう、とクロウリーはふんでいた。野生の勘のようなものが彼にそう囁いていた。

切り札は大切に使わなければ。

クロウリーは、渇きを慰めるようにごくんと喉を鳴らして唾をのみ、唇を噛み締めると発動を保ったまま、再び跳躍した。



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