パン! 鼓膜が破れそうな黒火薬の破裂音が小屋の中に鳴り響くのと、ラビがハンマーを巨大化して盾代わりにリナリーをかばうのは、ほぼ同時だった。 しかし音がしただけで銃弾がはじける衝撃はなく、ラビは瞬き一つせずにジョンの動きを見守った。 ハンマーの後ろで一瞬身を縮めたリナリーが、驚いた様子で銃口を見つめる。 「空砲?」 「スゴイな…本当にいろんな力があるんだな」 ジョンはひとりごちた。 「試してすまない。で、あんたら狼男をどうするんだ、退治するのか」 ラビは、ほんの少し肩をひそめた。 「いんにゃ。そのつもりはないんさ。調査してその原因を探る。それだけさ。俺たちが探している力がそこにあれば、まあ、話は別だけど」 ジョンは銃口から立ち上るきな臭い煙ごしに、ラビの巨大なハンマーを見つめた。 「そうか。…それは残念だ。 みてのとおりだ、この杖銃は、矢鱈大きな音がする。煙も厭な匂いだろ?だから狼どもはコイツを酷く嫌う。俺たち羊追いが喰われずにすむのはコイツのおかげだ。だが、撃っていいのは空砲だけ。狼を撃つとあとの報復が怖い」 「狼男の、さ?」 羊飼いはああ、とうなずいた。 「村の連中も怖がってヤツらを傷つけたりしない。そうすればあっちも村人は襲わない。これがこの村のルールだ。わかるな。それに狼男に銃はきかない」 ジョンは、杖銃を差し出した。 ラビは受け取りながら首をかしげる。 「だってそれは銀の弾丸だろ?狼男よけの。その、首のさ。ちがうんか?」 青年は慌てる様子もなく上着の襟を立て、首の紐を隠した。 「これは…そんなシロモノじゃない」 ふーん。と大きくラビはうなずいた。 「そうか。いや。ありがとな。あんたいいヤツだな。村の連中は何も話してくれないのに、いろいろ詳しく教えてくれたし。手当もしてくれて助かったさ。」 ジョンはにこりともせず、ドアに手をかけ大きく開くとラビ達をうながす。 「羊をさんざんやられているからな。出来れば本当に撃ち殺したいところだ。じゃあくれぐれも気をつけて」 ジョンが開け放ったドアを抜け、ラビはすたすたと外に出た。 そのままてくてくと森に向かって歩き始める。 リナリーも慌てて外に出ると、一礼して小走った。 ドアは静かにしまり、家の中のランプの灯漏れが閉じると、二人の若者の、闇になれ始めた目に、青い月の光が夜道を浮かび上がらせる。 リナリーは納得いかない様子で慌ててラビの後を追った。 「ラビ!どういうこと?歩いて行くつもり?クロウリーのところへ急がないと!」 しかし、小屋を離れたラビの表情に焦りはなく、その口元には何かしたたかな笑みすら浮かんでいる。 「ちょこっと確かめなきゃならねえ事が出来たんさ。そいつを片付けてから、クロちゃんを捜そう」 「なに暢気なこといってるの!いくらクロウリーが強くてもー」 「しっ。隠れてリナリー!」 ラビはリナリーの腕を引っ張って、牧草地独特の生け垣に身を潜めた。ラビはせっかく借りた銃を地面に放り出すと、じっとジョンの小屋の方角を見守って囁いた。 「絶対大丈夫さ。いや、俺も羊の残骸見るまでヤバイと思ってたけど…。 おそらくこの様子ならクロちゃんはもう逃げきってるさ、あの狼達はあれ以上、本気では襲ってこねえ」 リナリーが,少しイライラした様子で問い返す。 「もう、わかるように説明してったら」 ラビはちょっとだけ振り返った。 「狼って動物は食う以外の殺生はしないんさ。さっき見た羊の死骸はかなり残ってた。頭も皮もね。狼達は腹ぺこじゃなかったってことさ。つまり俺たちを食おうと思って襲ったんじゃない。だからクロちゃんが深追いされる事はたぶんないんさ」 「じゃ、どうして狼たちは?」 「俺が思うに、誰かが狼を俺たちにけしかけたんじゃねえかな。そもそも森に入った時から狼たちにつけられてた。奴らを手なずけてる誰か、が居るような気がする。 おそらく警告かなんかのつもりなんさ。適当に怖がらせるつもりが、俺らがまともに立ち向かったんで、アテがはずれたのさ。 もちろんあの狼は尋常な大きさじゃない。お陰で俺も少しビビったけど」 リナリーがすみれ色の瞳を丸くする。 「誰かの警告って、狼男が?」 「さてどうかなあ。んんっと。リナリーは知ってるさ?狼がきたー!!って昔話」 「……狼とうそつき羊飼いの話?」 ラビがニコニコ笑う。 「そうそう、正解。ピンポーン」 リナリーは煙に巻かれたように、一瞬思考を巡らせた。 「え?…じゃ、ジョンが言った事が全部嘘だっていうの?」 ラビは肩をすくめた。 「んや、まだわかんねえ。全部かどうかはさ。でも…なんつうか、あいつは喋りすぎる」 その時、ジョンの小屋のトビラが、音も無く開き、小屋の灯が外に漏れた。一瞬ジョンの姿が、月の明かりに荒れ野に浮かび上がり、そして闇に消えていく。 「んにゃ。全部かも?どっちにしても早いとこ、クロちゃんと合流するぜリナリー』 ラビは無事な腕で、ハンマーを取り出し、小声で『伸』とつぶやいた。 ギッシッ! 最後の大枝を踏み込み、大きく爆ぜるように飛んだかとおもうと、 月の光を受けてキラキラと輝きを放つ澄んだ水ぎわに、アレイスタークロウリーは水しぶきをあげて着地した。 詰めた息をふうとはくと、発動もほどける。 燃料なしに発動し続けたお陰で、だいぶ力が入らなくなってきた。 クロウリーは、銀色の水滴を乱れ落ちて頬にかかる長く白い髪にちりばめ、きらきらと輝かせながら、その長身で周囲を見渡した。 小さなわき水の周囲は黒々と深い森だが、気がつけば乾ききった今までの風景とは全く世界が違っていた。 湿った冷たい空気に清々しくツンと香る針葉樹の瑞々しい薫風。地面には青く草が茂り、その広大な絨毯の上にまき散らされて白いひな菊が満天の星のように月光に輝いている。 石英の透明なサザレに盛られてこんこんと湧き出る水は、鏡面を敷いたように黒く磨かれ、こちら側のクロウリーと星と満月を水のあちら側に完璧に映しだしていた。 静寂の中に輝くような命の風景。 「なんとも、美しい場所である」 さざめくごとに月灯りを宿す汀に立ち、 しばしその風景を覗き込むように見とれていたクロウリーは、 ふと不思議な事に気がついた。 水が彼に触れるたび、クロウリーの鼓動を伝えるようにかすかに震えて、まるで生きているかのように、青白い輝きを増すように見えるのだ。 「なん…であるか?」 おそるおそる水面に触れた瞬間、 皮膚を貫くように奇妙な感覚が彼を襲った。 疼くような、 まるで、それはイノセンスが囁く時のように切なく苦しくも、心地よく… クロウリーは、酔ったように息を荒げ、服が濡れるのもかまわずに、水面にひざまずいた。 セイレーンの唄に溺れる船乗りのように水音に誘われて両の手を捧げ、そっとつめたく澄んだ水をすくいとる。 クロウリーはその一雫を口に含んだ。 血を欲して乾いた唇が、一瞬かすかに焼けるように感じ、そして心地よく冷やされてうるおうと口の端を伝ってあふれ、顎から首筋を濡らした。 ゴクンと喉を鳴らして呑み込むそれは、甘美なほどに彼の体内に染み渡たると、力となってみなぎった。 それはまるで…アクマの血のような。 その瞬間、クロウリーは先刻の腕の大きな傷がみるみる塞がって新しい皮膚に覆われるのを目の当たりにした。 染み渡る水に、心の奥まで尊りながらも、彼は混乱した。 「なんだ?これは」 全身爆ぜるような歓喜に驚いて胸をそり、自分の躯姿を水面に覗き込む。 満月を背負って汀に映るその姿は、その意志とは関係なく銀色にたてがみを逆立てて瞳には闇を宿し、大きな牙を輝かせている。 まるで夜魔のように大きな血色の翼を広げ…。 「パシャ」 その時、発動によって無理矢理研ぎすまされた五感に人の気配がした。 「誰だ!」 身構え、振り返ったクロウリーは息をのみ凍り付いた。 なぜ今まできがつかなかったのだろう。 金色の長い髪と、凝脂ほどの白い肌がその視界に飛び込んできた。 渚から生えた水茎のようにすらりと伸びた細くまろやかな足は豊かな腰肉にまとまり、金色の髪をまきつけた折れるほど細いくびれをへて 薄い桃色の痣のごとく乳輪をそめて手に収まるほどの小鳩のような二つの隆起に至り、さながら熟さぬ蓮華の莟のように何の恐れも無く、立っていた。 水浴(みあみ)をしていたのだろうか、驚きに肌を隠す事さえ忘れ、クロウリーの姿を見つめる美しい女性の姿が一人、そこにはあった。 『し、失礼した!!』 発動しているにも関わらず彼は多いにうろたえ、耳まで紅くなって、180度反転した。 こうみえても天下無敵に純情一直線な28歳紳士である。 怪しむ余裕はない。どころかなぜこのような山奥に、こんな夜に女性が水をあびているのかなどを考える余地は彼にはない。彼は硬直したまま、隠れる場所もなく、女性が居なくなる事を願って、必死に自分の存在を殺した。 だが、 女は消えてはくれなかった。さらさらと麻をするような音が響き、どのくらいの時間が過ぎたか、わからないころ 「こちらこそ失礼しました。…もう、振り向いてもかまいませんわ」 鈴のような声が直ぐ後ろで響き、クロウリーはびくりと強張った。 「いや、ああの、すすす。すまん、とんだ無礼を働いた。ええっと、私はアレイスタークロウリー三世という。けっして、あやしいものでわ」 くす、と可愛い笑い声がした。 「いいえ、こんな夜更けに身殺ぎ(みそぎ)をしている方がいけません。おどろかせてしまってごめんなさい。私の名前はセラスティア シルベリともうします。この辺りに住まう者です。あなたは…」 声が、ほんの少し哀しみを帯びた。 「もしかしたら、あなたもバケモノなの?アレイスターさん」 |