人の気配は、いっさい感じられなかった。 クロウリーは、無意識に自身の破壊したかつての城の記憶と比べながら、その建造物を見上げた。 アレ、ほどではないが、この建物もなかなかユニークだ。バロック構造の石作りの館は、月の明かりに浮かび上がるように白く、切り取ったショートケーキのように、あるいはバロック(歪)の名にふさわしい異形の化石のように汀にたてられていた。 「ここが、シルベリ館、であるか」 子爵の身の上の別荘にしては慎ましいが、それでも装飾を施された石柱は重厚で見事にそびえ立ち,かつての栄華を忍ばせるには充分なたたずまいだ。 「失礼ながら、シルベリ嬢。あなたはお一人で、こちらに?」 クロウリーの問いかけに、彼女は、小さくうなずきながら重い扉を開いた。 「数年前に、祖父が亡くなってからは。両親は早くに事故でなくなりまして。ご存知かと思いますが、我らは周囲に疎まれる存在なもので、召使う者も、もはやございません」 こんな場所に、たった一人でくらしていけるのだろうか。 過去の財産に縛られ、村人達に迫害され、疎まれながらたった一人で。 クロウリーは何となく、自分の過去に似た風景の中を歩くように、ほんの少し居心地の悪さを感じ始めていた。 「さびしくはないであるか、シルベリ嬢」 言ってから、立ち入り過ぎだと反省する。 彼女は、麗しい微笑みを浮かべた。 その笑顔は、リナリーのそれに勝るとも劣らないほど可憐で愛くるしい。 (こんな可愛いお嬢さんが、本当に狼男なんであろうか) 早くその事を確かめなくてはならなかったが、尋ねるのがはばかられる気がして、クロウリーは周囲を見渡す。 建物自体は空に向かうような構造だが、内部はこじんまりとして見えた。上の階の扉はすべてとざされ、灯もともされては居ない。どうやらつかわれていない様子だ。 生活に必要なものはあらかた一階のフロアにまとめられているらしい。椅子と食卓代わりの小さなテーブルが奥まった場所に置かれ、華美な家具類は何一つない。 小さなトビラの向こうは、かまどと水屋、おそらく彼女の寝室をもかねて居るのだろう。 子爵令嬢の名前には似つかわしくない、あまりにもつつましやかな暮らしぶり… それは柩のようでもあり…。 「寂しくは…ありませんわ。私はここで生まれ育って、これが当たり前なのです。それに、村の人もみんながみんな怖い人じゃありませんし…」 セーラは、訥々と話続ける。人恋しさなのだろうか、最初にであったときからまったく物怖じせず怖がる様子も無く(しかも発動したあの姿なのに)、それどころかむしろ親し気に寄り添うてくるその娘に、クロウリーは警戒をする事をすっかり忘れていた。 「ときにはアレイスターさんのような旅の方もいらっしゃいますし」 「外に出ようとはおもわないのであるか?」 「シルベリを引き継ぐ者はもはや私だけなので、それに、私はここが好きなのです」 20歳に届くかどうかわからない、幼さを残した美しい女性は、困ったように説明した。 「しかしシルベリ嬢、ここの暮らしは-」 「堅苦しい呼び方ですのね。セーラ とよんでいただいてけっこうですわ。アレイスターさん」 にっこりと笑う彼女の金色の髪が、未だ乾かぬままにほつれるように流れてきらきらと光っている。クロウリーはうっとつまって、わたわたとうなずいた。 「え?あ、うッ。ああ。わ、わかったである…セーラ」 冷たい石床をコツコツと踏みならしながら、螺旋階段の真下に位置するエントランスの噴水の前に立つと、 クロウリーは、『ほおお』と簡単の吐息を漏らして、上層を見上げた。古めかしいバロック風の歪んだ螺旋階段が、巻貝の内部を覗き込むような閉塞感をまきちらしながら白く、見上げる者にめまいのような錯覚を起こさせる。。 その螺旋の中心。天頂の大きな天蓋にはレンズのような乳白色のステンドグラスがはめ込まれ、夜の星々の光をわずかに床に落として水に反射し、きらきらと輝いている。その泉の水は、先ほどの水源と同じく、妖しい青を纏っていて、なにか、意志のある物のようにクロウリーにはおもわれた。 (この水も…?) 許しを得る事も忘れて、黒い手甲をはめた手を伸ばしすくいとれば、冷たい感触が心地よい。しかし彼の細胞を沸き立たせる感覚は,全く得られなかった。 クロウリーは、白い前髪を揺らしながら、水のたゆとうを覗き込み、自分の姿を眺めた。先ほど覗き込んだ魔王のごとき面差しが、脳裏を掠める。 一瞬だったが、自分は確かに発動した。それは自分の意志によるものではなく、アクマの血を口にした瞬間のたしかに沸き立つような,抑えられないほどの衝動だったのだが…。それに傷も…。 ここにたどり着くまでに、牙をおさめ羽根も畳み込んで、すっかり柔和な紳士の出で立ちに戻ったクロウリーは、あの感覚がなんだったのか、懸命に自分の体の中のイノセンスに問いかけたが、理由はわからなかった。 水のせいか? それとも他のなにか、か。 「ここの水もあの水源からひいているのです」 クロウリーの思惑を知ってか知らずか、彼女は説明してくれた。 「我が一族が、ここに棲むようになってからこちら、当たり前に利用してきました。まあ、村の人たちは、この水を毒だといってこわがっていますけれども、私は病一つ得た事はありませんし、この年になるまで日常の糧にと利用し、毎日口にもしていますし、それに月の夜には水浴(みあみ)を…」 と彼女は口を濁し、今更ながらに頬を染めた。目の前に立っているクロウリーに肌を見られた事を急に恥ずかしく思ったのかもしれない。 そう思うとクロウリーも、恥ずかしさに耳まで染まった。正確には、その裸肌を思い起こしたとたんに、その白さに一瞬かつての想い人を重ねてしまい、自分のふしだらさに自己嫌悪したという方が正しいかもしれないのだが…。 話題を変えよう、と彼は慌てた。 「な、何からお聞きすればよいか、さっぱりわからぬのだが。と、ともかく私は怪しい者ではないである。この土地の伝説を調べにー」 セーラは、無邪気に驚いて、尋ねる。 「アレイスターさんは吸血鬼とか…ではありませんの?」 -アレイスタ-様、あなたは吸血鬼ですもの。 吸血鬼。 ずけっと言われた単語に、不思議と傷つく事も腹を立てる事も無くクロウリーは真正面に答えた。 「いや、今の…わたしはエクソシストである」 セーラの瞳に、ほんの少し、失望が見えたような気がしたのは、錯覚だろうか。 「そうでしたの… …… だったらとても失礼な事をもうしあげてしまいましたわね。本当にごめんなさい」 -いつまでもわたしだけの、吸血鬼で 心の中で甘く囁く声を聞きながらクロウリーは寂しく笑い、かぶりをふった 「事実そう思われても仕方が無い風体であるから。 ところであの 本当に、あなたは…えええと」 長い長い言葉の選択をへて、酸素が足りないような息苦しさに負けたクロウリーは言い出しかねて ふう、と息をついた。むしろ自分がその単語を口にする事のほうが、自身の傷をさらすようで言い出しにくい事に、彼は今更気がついた。 「失礼な言い方だが、あなたは、噂ではその」 「ええ…私が、狼男ですわ。」 セーラは、大きくうなずいてさらりと答え、無理矢理唇を引き締めるように笑顔を見せた。 あからさまな返事にクロウリーは少々面食らった。 「え?」 「驚きますよね。すみません。何ででしょう。今までこんな事を誰にも言わなかったのに。あなたには、平気でいえてしまいます。 初めてお会いした方なのに。 あ。でも怖がらないでくださいます?今は大丈夫。水を浴びたばかりですし」 「水を?」 「ええ。祖父の言い残しで月に一度浴びなくてはいけないのです。あの水源で。満月の夜に。そうすると、不思議と力が収まるといわれているんです。ただ、どういうわけかそれだけでは最近足らなくて、時々…」 「変身とかする…とでも言うんであるか?」 「…たぶん。でも…、よく覚えていないんです。 ただ時々、夜になると急に息苦しくなって、心臓が早鐘のように…ワインをいただいたときのように体が熱くなって、意識が…」 話を続けるうちに、セーラの呼吸が乱れ、闇の向こうを見るように震え始めた。 「叫びたいほど、体の中があふれかえって。嫌なのに、命じられて、それで…それで」 次第に悪夢を思いだすように、その華奢な指で、その身がこわれぬようにかき抱きながら、愛らしい彼女の表情が恐怖に強張っていく。 彼女の痛みは、誰にも分つ事が出来ないのをクロウリーは理解した。 おそらく自分以外は。 人でなくなっていくときのあの『恐怖』 罪の意識。 忘れる事は、できない。 もはや自分は恐れる必要は無いというのに、あらがう事の出来ないあの感覚を追体験するように共有し、クロウリーは身震いした。 はっとして彼女に駆け寄る。 「それで…気が、気がついたら、血だらけに!わたし…私がー」 クロウリーは呆然とするセーラの顔に手をあて、優しくたたいた。 「セー…ラ?セーラ!しっかりするである」 闇の向こうを見つめていたセーラの瞳が、クロウリーをようやく捉える。 「アレイスター…さん?」 「大丈夫であるか?」 泣きたいのか笑いたいのかわからない表情でセーラは顔を歪めた。 「大、丈夫、です。とにかく、わたし」 「話はゆっくり聞くであるから、今は少し休んだ方がいいである」 呼吸を整えたセーラは、クロウリーの手を優しく解くと気丈にしっかり立った。 「大丈夫。ごめんなさい大丈夫ですから。…嫌だ、私。久しぶりのお客様にこんな場所で立ち話なんか。 どうぞ御かけになってください。ちゃんと詳しいお話をいたします。なにもかも。 でも、その前によかったら、お茶を一杯おつきあいくださいませんか? …外の方に会うのは、本当に久しぶりなので」 おずおずと椅子を勧めたセーラは、扉の奥のキッチンに姿を消した。 その姿を見送ったクロウリーは椅子をひき、腰を下ろすと深いため息をついた。 居心地が悪い。 彼女の境遇は、あまりにも 「自分をみているようである」 そして彼女は、自分を化け物だと信じている。 彼女が心を許してくれたのは、おそらく自分の姿を同じ境遇だと見たためなのだと、クロウリーは理解している。 この任務を受けたときから、こんな出会いを予測はしていた。 しかし、恐れていたのはそこではない。 原因は未だわからないが、彼女の力がイノセンスの力だとしたら。 あるいは、そうでないとしたら、 かつてアレンやラビがそうしてくれたように、自分は彼女を救う事が出来るだろうか。 「ラビ達は、どうして居るであろうか」 彼らと別れてはや半時ほど。 正直自分一人では受け止めきれない。 ラビやリナリーになにもかも相談したい気持ちだった。 無事だろうか。それも心配だ。 その時、急に外の様子が騒がしくなった。 爆音のような振動が、ズシンと腹に響く。 「…判!!」 聞き慣れた声が聞こえたような気がした。 「ラビ?」 立ち上がった弾みにガタンと倒れた椅子をあわてて戻し、クロウリーが外に出ると、 ラビの振り下ろすハンマーが視界に飛び込んできた。 「ラビ!」 巨大な炎の吹き上がり、水面が真っ赤に輝く。 その上空に滞空し、青い光を放つブーツをはいた少女が叫んだ。 「クロウリー!!気をつけて」 敵の姿は確認できないが、戦闘はすでに始まっていた。 「リナリー!いったいこれは」 反射的に発動し、ラビの傍らに走りよる。 「一体何の騒ぎだ、眼帯!」 「クロちゃあん!無事だったさ?」 ラビのくすぐったくなるような声が懐かしく心地よかったが、クロウリーは不機嫌そうに鼻を鳴らした。 「当たり前だ。敵は!?」 とたんに大地をつんざくほどの声で咆哮が耳を貫く。 グウオオオオオオオオオオルウルルオオオオオオン 「とうとうおでましさ!」 説明を聞くまでもなく、それは瞬時に目の前に立ちはだかり、二人めがけて腕を振り下ろした。 とっさにかわしたラビとクロウリーは、二手に分かれる。 目の前に立っているのは、クロウリーの倍ほどもある灰色の体毛に覆われた獣の姿。 いや、人か? 「狼男?だと?」 -今は大丈夫。水を浴びたばかりだから… 発動した大きな牙をギイと噛み締めるクロウリーの脳裏で、愛らしい少女が、笑った。 |