黒く深い森が大きく揺れた。 狼男は醜く節くれた拳を固め、ミツバチのように滞空する黒髪の少女を掴み損ねて地面を叩く。 ゴーレムの豪腕のようなその凄まじい威力に草地は裂け、地上に立つ者の腑が弾けそうな衝撃波が伝わる。 地震のように大地が震えた。 発動したクロウリーさえも立っているのがやっとだ。 「円舞『霧風』!!」 リナリーの黒い靴が青白く光を吹き上げ、激烈な蹴りが巻き起こした突風が大地に拳を突き立てて不防備に這いつくばった狼男の背中に直撃した。しかし、獣は毛ほどのダメージも受けていたい様子で踏みとどまり、小虫を追い払うように半身をよじると、リナリーを握りつぶそうとその腕をのばした。 「くっ」 その爪をかわしてリナリーは上空へ飛ぶ。そのスキをついてラビが狼の懐に飛び込んだ。 「おりゃああああ、劫火灰燼、火判!」 片腕を負傷しているラビは、無事なもう一方の腕のみで巨大なハンマーを振り下ろした。その身に適合したハンマー(イノセンス)は持ち主に重さを伝えず、羽根ほどにも軽く、手指を動かすほどの自在さをもたらすのだという。が、普段両腕で扱いなれた武器には今ひとつ切れがなかった。狼男は強靭なバネ足ではるかにしさり、振り下ろされた鉄槌とその衝撃を楽々かわした。 「クソお。追いつけねえ」 わずかな時間差で、獲物を逃した火の陣が結ばれ、標的のない大地に炎の龍が放たれる。 重暗い森の木々のねじくれた枝に絡めとられながら、それでも夜の女神にせかされて、地平からゆるゆると天頂目指して上る金貨のような月を焦がさんばかりの炎柱が吹き上がり、湖面を紅く染めた。 ウルアアアアアアアアオオオオオンン 狼男は一筋の傷も負わぬままに再び雄叫びをあげると、その毛むくじゃらな腕を不細工に横殴りにひと振りして、ラビごと炎の龍を弾き飛ばした。 「うわ!」 なぎ飛ばされたラビは、ハンマーごと地面すれすれから水平に弾き飛ばされるとそのまま泉水に突っ込み、派手な水しぶきをあげた。 かすかにハンマーに青白い光が宿り、水面に消えていく。 「ラビ!!」 空中からリナリーが悲鳴を上げた。 追い打ちをかけて狼男が突進してくる。砂埃を巻き上げたその姿はまるで土石流のように凄まじく、破壊に満ちていた。 「おおおおおおお!」 クロウリーは矢のように突進すると、自分の倍はあろうかと言う猛獣の体に正面から体当たりをかました。 さすがの巨躯がその速度と衝撃に耐えきれず、上向きに倒れる。 狼男と泉の間にスラと着地したクロウリーは、背後の波立つ水面に向かって叫んだ。 「小僧!」 『ぶはあ!!』 巨大化したハンマーの柄につかまって、すかさず水上に回避したラビはブルブルと首を振って水しぶきを吹き飛ばした。 その姿を見て、クロウリーの血凝った険しい瞳に安堵がうかんだ。水ではなく地面に激突していたら、ただではすまなかったろう。 「くっそ。やっぱ半端じゃねえさ」 長くのばしたハンマーの柄に、片腕だけで必死にしがみついたラビはブチブチと呟いた。 狼男の動きはクロウリーほどではないが、やはり並の人間の速度ではない。おいそれと素直に火判の円陣に捕捉されてくれる相手ではなさそうだ。 しかし 攻撃力はともかく、狼男の動きは単純でやみくもだった。 ラビは瞬時にかつて初めて戦った時のクロウリーを(比較するのは心が引けるが)思い浮かべた。 当時、欲望のままにレベル1のアクマを狩るだけだったクロウリーだが、舌を巻くほどに戦いのセンスがあり、冷静で的確だった。それ故に初めての実戦でラビやアレンにも対等以上の戦闘力を見せつけた。 それはもしかすると、古くは神聖ローマ帝国の勇者の末裔に座するであろうルーマニアの貴族の血ークロウリーがもって生まれて身にしみている遺伝子の記憶なのかもしれないし、あるいはイノセンスそのものが宿主に与える戦闘能力のいったんなのかもしれない。 いずれにしても彼はその戦闘センスのお陰で、導く者もなく自覚を持たないアクマ狩りの日々にも勝利し、シンクロ率の低さにも関わらず、生き延びることが可能だったとも言える。 一方 狼男は怒りに溺れるように吠え、その巨大な腕で地面の表面ごと周りのすべてを薙ぎ払い、牙をむき、爪を振り回しやみくもに動いている。 ラビは、鎚をのばしてクロウリーの傍らの乾いた地面におり、武器をいったんおさめた。 「まるで狂犬さ。理性のかけらもねえ」 クロウリーも信じがたいという表情でうなずく。 「…あれが本当にセーラなのか?」 「セーラ?ってクロちゃん、シルベリの奴にもう会ったんか?」 クロウリーの呟きをラビが聞きとがめる。クロウリーの脳裏に白い裸体がかすめた。 「え?」 「妙に馴れ馴れしいさ?」 発動中の強面が明らかに動揺して紅くなるのをラビは見逃さなかった。 地にひきたおされた凶獣は身を起こすが敵を見失ったようだ。 ラビはこんな状況にも関わらずきょとんとして、クロウリーを覗き込んだ。 「なあなあ、なんで恥ずかしがるんさ?」 「う…や、やかましい!それよりどうしてこうなった。状況を教えろ」 「状況もなにも。俺らがここにたどりついたらアイツが急に現れて!!うわ!」 いらだちからいよいよ荒れ狂った狼男派、標的をみつけるや割れた地面の巨大な岩を掴み、二人めがけてぶん投げた。 「やべ」 二人はあわてて、互いの距離を置いた。 何トンもありそうな岩盤があられのようにふってくる。 降り掛かる岩をラビはハンマーで、クロウリーは血で固めた拳で打ち砕く。 その様子を見た狼男はますますいきり立つように咆哮した。 「おとなしくし、な、さ、い!!」 上空からふりそそぐ稲妻のように、リナリーの蹴りがその首筋にめり込んだ。その破壊力に、さすがの巨体もうめき声を上げて数度嘔吐いたが、同時に彼女の足を掴むと、自分の体からむしり取るように引きはがし、逆さまにつり下げた。 「きゃああ…」 「「リナリー!!」」 同時に叫んだクロウリーとラビは、砕け散った岩をはじき飛ばしながら、リナリーを捕まえている狼男に突進した。 「直火判!!…は、まずいさ!!クロちゃん頼む」 リナリーの身を案じて、火判を撃ち留まったラビが叫ぶ。 「まかせろ」 言い終わるか終わらぬうちに、クロウリーは虎ばさみのように大きく牙をむき、リナリーを掴むその腕に凶暴きわまりない牙を突き立てた。 鋼をも貫くその鋭さに、さすがの強靭な狼の皮膚が食い破られた。クロウリーが噛み締める灰色の毛皮の中から、真っ赤な血が溢れ出す。 クロウリーの口の中を暖かくとろりとぬめるような、数えきれないほどになれた感覚が満たす。 が、しかし (何だこの味は!?) 狼に食らいついたまま、牙をもつエクソシストは顔をしかめた。 味わった事の無い、血の味。 もちろんアクマの、甘美なオイルではない。 まして、普通の人間の、鉄臭いアレでもない。 だが、 寄生型エクソシストのアレンのように、吐き気がするほど苦いソレでもない。 いずれにせよ、不愉快な味だろうと覚悟していたクロウリーだったが、想像していたどれでもない事に、彼は困惑した。 強いて言うなら、炭酸水のように弾け、わずかに酸塩からいような… イヤイヤ、味を吟味している場合ではない。 だが、アクマの体液でない以上、美味いはずはなく、飲み下す事も到底出来ないクロウリーは咥内の違和感に酷く戸惑った。しかし顎の力を緩めはせずさらにさらに牙をめり込ませる。メリメリと狼の腕の骨が音を立てて、クロウリーの耳骨を刺激する。 狼男に苦悶の表情が見え、リナリーを掴んだ握の力が緩み始めた。 すかさず、ラビがハンマーをのばしてその手甲を打ち据えると、リナリーの体は空中にほおりだされ、地面に落下した。 「リナリー!」 ハンマーを縮めたラビは、片腕でリナリーを受け止めようと駆け寄ったが、リナリーは自力で舞い上がると、その手をかわし、そのまま静かに着地した。 「大丈夫かリナリー」 「ええ!」 リナリーの無事を確かめたラビが狼男を振り返ると、 狼男は腕に食いついたクロウリーをはぎ取ろうと爪を出してもがき、自らも牙をむいてクロウリーを噛み砕かんと躍起になっていた。 「大丈夫かなクロウリー、」 「ああ、こうなったらもう、クロちゃんにまかすさ」 片や、灰色の巨大な爪を振りかざす狼人。 かたや、魔性の僕のような形相のエクソシスト。 「すげえ迫力さ、なんか…怪獣映画みたいな」 「ラビ!」 リナリーの肘鉄が、ラビの懐を直撃した。 「暴れるな!お嬢さん!」 リナリーの無事を横目で確かめたクロウリーは、牙を外すとその腕を左手に掴み、胸板を足台にして逆上がり、強烈な蹴りを顎にかました。 『ええ…私が、狼男ですわ』 セーラの笑顔が、クロウリーの心にふい、と泡立つ。 ブアン と空気がふくれる音がして、もう一方の腕がふりおろされ、クロウリーの頬の上を鈍いダガーのような爪がかすめていった。 それだけで風は真空をはらみ、クロウリーの皮膚を見事に切り裂いていく。 ツっと熱い一筋がクロウリーの頬を伝い落ち、ポタポタと赤く地を染める。その一筋を舌でなめ受けながら、蹴り上げた腿を返して、踵をさらにその顎に落とし込む。 『寂しくは…ありませんわ』 この化け物が本当に彼女なのか? 『これが当たり前なのです』 グアハ! 白く濁った泡を吹いて狼男が醜く赤い舌をのぞかせる。 蹴りを入れたクロウリーは勢いで反転したその身で、腕をねじり上げて背後に回り、片羽交い締めにすると、獣の背骨に膝を当て込み、全体重をかけて、のけぞらせ、そのまま地面にひき倒す。 どう!と響きをあげて、灰色の獣が泥に背をつけた。自らの体重に当てられ、一瞬、その横隔膜がけいれんし、呼吸が出来ずに嗚咽する。クロウリーは素早く、身をひき、両肘を強く押さえ込んで馬乗りになった。 『セーラ とよんでいただいてけっこうですわ。アレイスターさん』 本当にあの可憐な娘なのか? 「おとなしくしろ!ジャジャ馬め!」 なおも抗う獣を捕縛するクロウリーの金色の瞳が、空に浮かぶ月と同じ位置で狼男を見下ろした。 血のように赤い瞳を図らずも覗き込む。 自制を失って破壊に溺れ、殺意に満ちた獣の目。 その目を見たエクソシストは、一瞬動きを止めた。 「…誰だ!?貴様」 狼男はその気を逃さず、全力でクロウリーを振り払った。 直情的な馬鹿力は、明らかにクロウリーより勝っている。力任せの攻撃でもまともにあたれば致命傷となる。 『グアハッ』 大きく弾かれたクロウリーは、脇腹をしたたかに打ち込まれ、血反吐を吐いて地面に叩き付けられながら確信した。 これは、彼女ではない。 この憎悪に満ちた生き物はなにか別の… 殺意に満ちた敵の瞳を覗き込んで、全細胞に警句が告げられた。 殺ラレル前ニ殺レ! それは自らが宿す獣の血が教える警告だった。 もんどりうつように転がりながら、すぐさま体勢を整え直す。同時に懐のアクマの血のアンプルに腕をのばした。 しかし 構えはしたが、そのアンプルを折るにはいたらず、彼は再び立ち止まった。 「ラビ、あれ…」 「ああ…」 狼男の様子が少しおかしい。 化け物は息が出来ぬかのように、喘ぎながら身を震わせ、自らの頭を抱え込んだ。背中のたてがみのような灰色の剛毛がざわざわと震える。それはまるでアヘン切れの中毒者のような。 あるいはアクマの血がきれた時の… 「なんか、俺。デジャブな気がするんですけど…」 ラビは誰にも聞こえない声でぼやいた。 様子をうかがう三人のエクソシストに面と向かった狼男は、鼻面をゆがめて威嚇の声をあげ、彼らが身構えるスキを突くように、急に身を翻すと泉水に飛び込んだ。 「しまった!」 エクソシスト達が、それぞれ汀に駆け寄る。 しかし、既に狼男の姿は暗い水底に消えていた。 「逃がしちゃまずい。急いで岸辺を探すさ!」 ラビはハンマーの柄を掴むと直線に向こう岸を目指した。 「ええ」 「心得た!」 クロウリーは俊足で右へ、 リナリーは水際を滑るように左へ しかし、三人が狼男の姿を見る事は出来なかった。 ほぼ向こう岸の合流地点で彼らがみたのは、 汀に波打たれながら、ぐったりと横たわる美しい娘の姿だった。 「セーラ!」 発動を解いたクロウリーは上着を脱ぎながら駆け寄ると、 衣服が透けるほどぐっしょり濡れたその身を、そっと包み込んで抱え上げた。 血の気が引いてますます白く見えるその頬に、頂を極めようとする月の光が降り注いで青く輝かせる。 「手足が氷みたいに冷たいである…死…死んでしまったであるか?」 彼女の様子を見ていたラビは、半泣きでオロオロしているクロウリーの背中をぽんとたたいた。 「大丈夫だ、クロちゃん、気絶してるだけみたいさ」 「ほ、本当であるか?」 クロウリーはほっと胸を撫で下ろした。 「ああ、けど、だいぶ躯が冷えてる、はやいとこ休ませねえと」 「この人がセラスティアさん」 リナリーが覗き込む。 「そ、そうであー」 「そうみたいだな」 クロウリーの言葉より先に、ラビが呟いた。 彼は抱え上げられた娘が左の足首にはめている銀色のアンクレットを皆にわかるように月明かりに見せた。 汀での最初の出会いの時は、臑まで水面に浸っていて気がつかなかったが、彼女の細い足首には枷のように不似合いな銀色の装飾品が輝いていた。相当古いものらしく、彫金の一部がすでにえぐれ、指が通るほどの穴があいていて、刻まれた模様もかなり摩滅している。 「ここに、シルベリの名前と紋章が入ってる。それから月の満ち欠けを模したレリーフと…この小さい文字は…フサルクか?」 ラビは言葉を濁すように黙り込んで足輪を凝視した。 「きれいな人。やっぱりこの人が狼男なのかしら」 「ち、違うであー」 「違うみたいさ」 「…ラビ?」 慌てて否定しようとしたクロウリーより先に今一度、呟いたラビは、驚いているクロウリーとリナリーに明るい緑色の瞳で微笑みかけた。 「とにかく、彼女を介抱しよう。だんだん読めてきた気がするさ」 |