およそ100年前。

それはたった一つのイノセンス(キューブ=石箱)から始まった。

黒の教団は、イノセンスの探索と、適合者の捜索。同時に伯爵率いるアクマたちとの戦いという過酷な死命を同時に行うべく創設された。

イノセンスの数は109。世界中に四散していて、すべては確認されていない。

しかも適合者を見つけなくてはその力は発揮されない。

イノセンスと適合者を探す動きの裏で、教団は試みを繰り返した。

普通の人間をイノセンスに適合させる方法。神に選ばれていない肉体で、イノセンスを縛る試み。

そのために最初の適合者となったヘブラスカの一族ールベリエの家の者達が贄としてさし出され、様々に非道な実験の露と消えていった。


しかし、かつて別の方法を模索した者もあった。

イノセンスを新たに作る。

誰にも拒絶反応のない対アクマ武器を創造する。

神の業をうつしとろうとする試みは、それこそ知恵の果実を口にして追放されたという人のおごりそのものと言えなくもないのだが…。

「100年前っていうと、セーラの曾祖父か、その前、ぐらいの人だろうな?

ダークマターを圧倒できるのはダークマターそのものと、イノセンスしかない。オレらにとっては常識だけど、その当時は本当に様々な模索がされたんだろうさ。

結局、アクマ浄化の決め手がみつからない子爵は黒の教団を抜けて郷里に戻り、それでも対アクマ武器の研究を続けたんだ」

クロウリーは部屋につまれている未完成な武具の数々を見回した。

「もしかするとファインダーが使うタリズマンなどは、そういう人々が開発したものかもしれないであるな」

「ああ。そして子爵が神の力の代用品に目をつけたのが… 」

ラビが指を空に向ける。

クロウリーはポムと手を打った。

「月!であるな」

「そう、太古より月には魔力があるといわれてる。彼は神の力の代わりに月の魔力を動力源にして、人の潜在能力を強化する装備型の疑似イノセンスを作ろうとしたんさ。生物の体内潮汐(Biotide)を操作し、身体能力を最大限に引き出す装置とでもいおうか。あ…クロちゃん、わかる?」

「うーむ。……正直、よくわからないである」

ものすごくあっさりとクロウリーが敗北を認めると、ラビは、子供に話して聞かすように言葉を選ぶ努力をした。

「かんたんに言うとだな。

月の力は大海にさえ満ち潮・引き潮を引き起こす。そのエネルギーは凄まじいものさ。で、体がほとんど水分で出来ている生物に月の力の影響を与えて超越した力を引き出す道具ってとこかな」

「月の光を浴びるとものすごい力を発揮出来る武器?」

「まあ、すんげえざっくりいえばそうなるさ。それがセーラが足にはめているアンクレットだってわけさ。

この日誌には、この武器はまだ試作品だと記されてるけどね。

あ、それからエネルギー飽和状態の時に水に触れるとその力が水にも解け出してしまうらしいさ」

「それで、あの『水』であるか?」

「オレにもその辺の科学式は解けないけど。その水を大量に飲めば、当然身体に変化が起きるだろう。少しだけだったとしても、コムビタンDを飲んだようにぶっ飛んじまうんじゃないかと思う。かつて子爵が水源に毒を流したという伝説はそれだろうな。きっと水を飲んだ連中や家畜がおかしくなっちまったんさ。

あと、疑似とはいえイノセンスを模倣した物質が生み出す力だから、俺ら適合者には特別に影響力があるってことも考えられる。クロちゃんは一瞬だけど発動したっていったよな。さっきの戦闘で俺が水に沈んだ瞬間も、俺の意志と関係なくハンマーがいきなり巨大化したし…ま、そこは厳密には調べないとわかんねえけど…」

クロウリーは、興奮した様子で、うんうんとうなずいた。

「とにかく、早くこの事をセーラに知らせてあげなくては。彼女も彼女の一族も、けっして狼男ではないという事を」

「そうなんだけど。クロちゃん。肝心なことがまだあるんさ」

ラビはさらさらと日誌をめくり途中のペ-ジをひらいて、クロウリーにみせた。

糸で閉じられたペ-ジが数枚、乱暴にむしり取られている。

「…破られているである…。あ!」

クロウリーは床の足跡を振り返った。

「そう。ここに何が書かれていたか、わからないけどさ。少なくとも俺らの他にこの秘密を知っている奴が居るってことさ」

ラビが真っ正面にクロウリーを見上げた時、階下のリナリーが大きく声を上げた。

『ラビ!!クロウリー!!セラスティアさんの意識が戻ったわ!』



「この足輪は祖父から受け継いだものです」

細く美しいくるぶしから、その銀色の金属輪をとても大切そうに外したセラスティアは、それをラビに渡した。

「高祖父(祖父の祖父)は科学者で実験中の不慮の事故で亡くなったと言われています。この飾りは以後、館の主人の証として次代に片身分けされるようになったのです」

やはりそうか、とラビと二人顔を見合わせたクロウリーとは、やさしく言い聞かせるようにセーラに向かった。

「セーラ。やっぱりあなたは狼なんかじゃなくて、普通の人間である」

「…なにを言い出すの?アレイスターさん」

「すべてはこの輪っかが原因なんさ」

指の上でくるくると彼女の足輪を弄びながら、ラビが今までの一切を説明した。

リナリーもさすがにこの話には驚いた様子で、目を丸くする。

「セラスティアさんのご先祖が教団の、科学者…?」

「ああ。ただ、フサルクが読めなかった子孫はその事実を知る事もなく、未完成なこの武器を代々にわたって装備し、まるで呪いが引き継がれたように思われたんさ。

昔から『狼憑きは水を怖がる』という言い伝えがある。水を浴びると変身せずにすむ事がわかったのは偶然だったんだろうさ。この病をおさめる為にあれこれ試したあげくにね。

お陰で以後シルベリ家の『呪い』は静まった。月に一度、必ず水殺ぎ(みそぎ)をするようにと、セーラの爺さんがきつく遺言した訳もそれだろうな。

セーラが変身した事があるとしたら、一番最初に引き継いだ時だけじゃないかと思う。蓄積と放出のタイミングがあわなくて、変身してしまったってところかな。でも、それ以後、毎月きちんと水を浴びている彼女はそうそう狼男にはなれないはずだった。肝心の力は水のほうに解けてしまうんだから。

ところが、村じゃ最近でもしょっちゅう狼男があらわれてる。旅人が襲われたり、羊もかなりの数食われてる。夜になると村中の家が扉を閉ざして震えてる。日照りなのに、わき水さえ飲もうとしない。おかげで、シルベリ館は完全に阻害され、セーラは孤立してきた」

「どういう事であるか?」

「彼女を陥れてる奴がいるってことさ。たぶん彼女は羊や村を襲った事も旅人を殺した事も無い」

セラスティアは、言葉を理解しない小鳥のように、小さく首を傾け、何をいわれているのかわからない様子で、ただ3人の顔を見渡した。

「だって手に血がー」

「血が付いてた。…のを見たのはいつさ?」

ラビは優しく問いかける。

「誰かが眠っているあんたの手に血をつけた。事によったら血まみれの服を用意して見せたりもしてるかもしれねえ。そいつはあんたに優しく取り入り、あれこれと力を貸して唯一の味方であるように装いながら、ことあるごとに言い聞かせた。

セラスティア マリア シルベリは化け物だ。狼男だってね」

「そんな、まさか…」

セラスティアはガタガタと瘧を起こしたように震え始めた。

無理も無い。善報悪報いずれにしても、今まで信じてきたものを全否定される言葉の嵐を受け止めるのは恐ろしい事だ。

「ねえ、セーラ。さっき窓辺に来てあんたを外に連れ出したのは、だれさ?あんたはそいつを信頼してるんだろうけど、そいつがあんたを騙してる張本人さ」

ラビは、木の扉に寄りかかって、静かにセラスティアを見つめた。

セラスティアは唇を噛み締めて顔を上げたが、すぐさま苦悩するように躊躇し、眉をひそめた。

「…知りません」

「知らない?」

「み、見た事も会った事も無い方です」

「嘘さ」

彼女は助けを求めるようにクロウリーを見つめた。クロウリーはありったけの努力をして優しい笑顔を浮かべる。

「私たちはあなたの友である、どうか信じてすべてを話してほしい」

だが、セラスティアは首を振った。金色の陽射しのような髪が揺れる。

「わかりません。だいたいどうして彼が」

「彼?」

はっとしたセラスティアは言葉を詰め、涙を浮かべて強く首を振った。

「そんなはず、そんなはずありません!…だってどうして、一体何の為に」

「その『彼』がなぜこんな事をしてるのか、理由は俺にはわからない。んまあ。だいたい想像はするけど、本当のところはさ。

どーうするさ?

セーラはあんたを信じるって言ってるんだぜ。

これ以上彼女を苦しめてどうするんさ。

それとも、俺が全部バラしてもいいんかな」

「…何をいってるのラビ?」

「んや。実はさっきからお客様がお待ちかねなんさ」

ラビは寄りかかっていたドアから離れ、ドアノブをまわし、ゆっくりと扉を開いた。

月明かりの中、エントランスの中心に人影が浮かんでいた。

セラスティアの大きな瞳から涙があふれる。

「そんな…そんな事が」

リナリーも息をのむと、反射的にセラスティアをかばうようにだきしめた。

「あなた…が?」

「だってさあ。他に誰もいないっしょ。ねえ?」

ラビがコキっと首をならしてぼやいた。

「こんばんわ。まだいたのか、旅の人」

と 人影は声を発した。

ラビがうそぶく。

「ああ、こんばんわ。クロちゃんには紹介しなきゃ。彼が俺の怪我を手当てしてくれた羊飼い。ええと名前は」

「ジョンだ。ジョン オービス。ただのジョンでけっこうだ」

影は顔を上げた。

「お前は!」

薔薇十字を刻んだ銀色に輝く泉の傍らに、憎しみをたぎらすように立つその眼差しは覚えがある。

クロウリーは羊飼いに面と向かい、ギラつくような瞳から目をそらす事無く、敵意を込めて会釈した。

「私はアレイスター。アレイスタークロウリー三世である。さきほどは挨拶もなしに失礼をした、狼男」


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