「このお店には、その薔薇はないのであるか」
クローリーの問いかけにローダは首をふった。
「ざんねんながら、生のダマスクはなかなかロンドンではお目にかかれないですね。観賞用の花ではないし」
「そう・・・・であるか。それは、とても残念である」
ローダの言葉をきいたクロウリーは明らかにがっかりした様子だ。
子供のように悄気てしまった彼に、ローダはあわてて声をかけた。
「でも、全くない、と言うことはないわ。もうすぐ・・・初夏になれば市場で見かけることがあるもの。見かけたら入荷してみようかな」
「本当に?」
「ええ。約束するわ・・」
クロウリーは少し赤面すると、嬉しそうに笑った。
彼の微笑む唇の両端に先ほども見えていた大きな犬歯が白く光って見える。悪戯な動物のようでかわいらしい。
笑顔が柔らかな人だな。あの人みたいに。
ローダも微笑んだ。
・・・そしてその果てに、ふと普段は口にしない言葉をついもらした。「私の主人もね。ダマスクが・・・・好きで」
「御主人が?」
「あ、や、まあ。主人・・・というか、まあ、婚約者。結婚式の3月前に死んじゃったから」
クロウリーは綺麗に縫い取られたサシェを 真顔で見つめた。
「これは亡くなった御主人の、であるか」
ローダは静かにうなずいた。
「彼がお守りに、作ってくれたものなの。彼、調香師で。あ、香水をまぜて作る人。
特にダマスクローズが好きでね。
結婚したら小さなお店出して、彼が薔薇水を売って、私は薔薇を売る。
そういう約束だったんだけど。
・・もう4年も前の話。こんな雨の日に、馬車にひかれて・・・」「そう・・であるか」
「まあ、めそめそしててもはじまらないんだよね。
生きていくには、わすれなきゃいけなんだ。
新しい恋さがすとか、自分の夢おいかけるとか。けど。
でも、今でもそのサシェが香るもんだから。捨てられなくて。
立ち止まってしまって。あはは・・・・
なんで私、こんな話ししてるんだろ。あは、ちょっと薔薇香に酔ったかなー。
お客さんに暗い話しちゃって・・・ねえ。
・・・・ごめんなさいね。クロウリーさん」ローダは滲む涙を手の甲でこすりおとし、無理に笑いに隠して、作業に戻った。
花達に水を与える霧吹きの音。
雨の音。
わずかに身じろぎをするクロウリーの腕で、枷ている銀の輪が幽かな音をたてている。
ながいことローダを観察していたクロウリーは、懸命に言葉を選んでいたが
とてもしっかりとした物言いで、
「・・・忘れることはないである」
といった。
「忘れようとして、ずうっと後ろを見つめているくらいなら、忘れずにいて、前を向く方がいいと思うである。
貴女は、きっと一生懸命、前に向かって歩いているのだから。
だから、時々苦しくなるのであろう。
歩いて歩いて、疲れたら、
立ち止まるのもいいのではないだろうか?
だって・・・立ち止まらなければ、足もとの花を見ることはできないであるから」クロウリーの真摯な言葉が、ローダの痛みを少し和らげる。
「そう、かな」
「私はそう、思うである」
クロウリーは自分にも言い聞かせるようにつぶやき、そっとサシェをローダの手に返した。その時
キイイィイイ。
今まで閉められていた奥の扉があいた。
「・・・ローダ。お客・・がい・・るのがい?」
物憂気なオーナーの声。初老の小柄な婦人だ。
ローダがあまり長話をしているので様子を見にきたのだろうか。
「あ、ギャビンさん。目がさめました?」
普段はきっちり結い上げている灰色の髪はほつれ、ショールは半分か肩から落ちた状態で、のそのそと緩慢な動きでこちらに近付いてくる。
なんだか何時もと様子がちがう。
心ここにあらずという感じだ。
「すみません、騒がしかったですか?・・・具合、大丈夫ですか?休んでいらしたほうが・・・」
「この方はどなたであるか?ローダ」
クロウリーの声が急にこわばった。
「この人がオーナーのギャビンさん・・・ちょっと最近具合が悪いみたいで」
「・・・なるほど・・・確かに悪そうだ」
クロウリーの低く不機嫌そうな声音に驚いて、振り返ったローダは息を飲んだ。そこに立っているのは、さっきまでの人なつこそうなクロウリーではなかった。
血のようにどす紅い不敵な笑みの端で、鋭い牙が青白く輝いている。
それは、まるで・・・夜の王のように
「ク、ロウリー、さ ん?」
「もちろん・・お客は大歓迎ざ』
人とは思えないざらつく声で老女はいった。
小柄な体が、ガクンと大きく不自然に折れた。
『特に・・エクゾシズトは』
地蛾蜂が芋虫の皮膚を食いやぶるように、老女の首の皮が引き千切れると鋭い砲台が突き出た。
「え?」
見る間にその体が卵のように膨らんでブチブチと嫌な音を立ててはち切れ、
爬虫類のひからびた皮膚と蟲のおぞましい角羽を持つ化け物が生える。恐怖の余り、ローダの口から声にならない悲鳴があがった。
とたんにその呪われた化け物の体から黒い弾が四方八方に打ち込まれた。
衝撃で棚が崩れ、美しく飾られていた花達が落ちて、血しぶきのように床にまき散らされていく。
恐怖に立ちすくむローダを抱えて、クロウリーは瞬時に退り、彼女を背後におしやった。
パニックを起こしたローダはクロウリーにしがみついた。
「あ、あれはナニ?・・ギャビンさんは?」
「じっとしていろ、すぐに片付く」
逆毛立った白髪が獅子のように揺れる。
獣のような荒い息使いと早鐘の心音がローダの肌にも響く。
クロウリーは彼女を傍らに放すと、信じられないほど残酷な笑いを浮かべた。
「喰らってやる、雑魚奴!!」
血の砲弾がクロウリーめがけて打ち込まれる瞬間、彼の黒いコートの裾が翻った。
数え切れぬほどの紅蓮が一瞬にして噴きあがり、店中が深紅に染まった。<Next>