その日。
崩壊の進む黒の教団の旧本部はかつてないほどに殺気立っていた。

アジア支部の助力によりコムビタンDによる混乱はなんとか終息したが、
引っ越しのスケジュールは大幅に遅れており、中央庁からの催促勧告は、もはやのっぴきならないところまでの圧力となっていたのだ。
本部深層では
各セクションのリーダー達が血眼になって指揮をとり、
かつて無いほどの起動力で粛々と
引っ越しが行われている最中だった。
まさに猫の手も借りたいほどの忙しさ。
居住区でも
平エクソシストたちはもちろん、元帥までが例外なくほこりまみれになり、自分の部屋の整理や荷物まとめに追われていた。

ただひとり
エクソシストの
アレイスター クロウリー三世をのぞいて。 

 

 

a iadul  ー奈落ー

 

 

 

ここ数日、昼夜問わず、ひっきりなしに音がした。
ドアの向こうの医務室では、婦長らナースたちがミツバチのように動き回り、医療器具などの梱包に性を出しているようだ。
部屋の中の他のベッドや椅子や点滴のスタンドなどもすべて片付いてしまった。
クロウリーの乗っかっているベッドだけが、ポツンと残されている。
彼はシーツにくるまったまま、借りてきた猫のように、所在無く、外の音を聞いていた。

  みんな忙しそうである…

五感の鋭いクロウリーにはドアの向こうの気配がよくわかる。
おとなしく寝ているように言われては居るが、…気になって眠れなかった。
それに、うんざりするほど眠っていたし…。

方舟から数ヶ月がたち、
例のコムビタンD事件のおかげで、クロウリーは意識は取り戻したし、身体もほとんど回復している。
だが、あの薬を投与されたおかげでかなり無茶もしたらしい。
それにワクチンを作る為に捕獲されて、だいぶ手荒なこともされた、らしい。(自分は覚えていないけれども)
そのためか、クロウリーはまだ退院を許されていなかった。
アクマの襲撃があって、ココを引っ越すことになったらしいのはわかったが…
  自分はどうすればいいだろうか。
  誰もおしえてくれないである。
クロウリーは所在なさに困り果てていた。
もちろん検査や、投薬もあって、けして医療班にほったらかしにされている訳ではないし、仲間たちも必ず一日一回は顔を見せてくれる。
だが、それもあっという間。
頼みの綱のアレンとラビも、大忙しらしく、ゆっくり話も出来ない。
「じゃ、またきますねクロウリー」
「おとなしく休んでるさ。クロちゃん」
  おとなしく…
  …何もせずにここに居てもいいんだろうか?
  もう自分はすっかり元気(なつもり)なのに。
  何か出来ることはないんだろうか…

意を決したクロウリーは裸足のまま、ベッドをおり、ドアをあけてひたひたと部屋を出ると、おそるおそるナースステーションを覗き込んだ。
「あら、クロウリーさん。どうしたんですか?」
ナースの一人が彼に気がついた。
「あの、なにか手伝えることは無いかと思って…」
「まあ、ありがとうございます。でもクロウリーさんはまだ入院中なんですよ。大丈夫ですから、ベッドでゆっくりしていてください。そうそう、今日は食堂も忙しくて、夕食が少し遅くなるそうです。おなかがすいたら、ナースカウンターにビスケットがたくさんありますから。自由に食べてくださいね。いただいた物なんですけれど、監査官のリンクさんの手作りだそうで。とってもおいしいですよ」
ナースは、薬の瓶のラベルに何かを書き込む手を休めること無く、にこやかに言った。
「あ、ああ……ありがとうである」
クロウリーは所在無く礼を述べたが、それ以上彼女がしゃべってくれないので、おずおずとそこの場を退いた。
仕方なく自分のベッドに戻ろうとして、立ち止まり、長々と続いている階段を見下ろした。
「そうだ。私の方からアレンたちのところへいけばいいである」
彼らも忙しいに違いない。何か手伝えることが在るかもしれないし、引っ越してしまう前に彼らの部屋に行ってみたい気もした。
彼は、部屋に戻ると、医療用のパジャマを脱いだ。
支給されたばかりの服が入っている箱を開け、黒い服とズボンを取り出して身につける。
シャツに袖を通し、ほんの少し、眉をしかめた。
妙な感じだ。
薄手のタートルネックは、想像以上に暖かい。おそらく自分には想像できないような新素材で出来ているのだろうが…。
なんというか、身体に密着して皮膚になれなれしい。
クラシックなシャツをきるときと全く違う感覚に、なんだか不安になった。
それに腕がまるっきり出てしまう。
おまけに…上着がない。
もちろんマントもない。
脇がスウスウするような気がして、クロウリーは落ち着かなかったが、自分の持ち物は、全くないのだから仕方が無い。
憂鬱そうにため息をついた彼は、長めの黒いカーディガンを取り出した。
ないよりはましとばかりに袖を通さずに羽織り、枕の脇に置かれていた唯一の私物、腕輪をしっかりと両手にはめた。
ロングブーツをはく。
これはさほど違和感がない。
なじみのある皮の感触に少しだけ安心したクロウリーは、手櫛で髪を整え、背筋を伸ばし、服のしわを伸ばすと、ナースたちに見つからないようにそっとフロアを抜け出した。
 

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