階段を上がったり下がったり…もはや、どのフロアに居るのか訳もわからず走りまわった末に…
息を切らしながらクロウリーはようやく立ち止まった。
身体がなまっているのか、少し呼吸が苦しい。
ハアハアと浅い息をしながら、気がつくと、誰も追ってくる者はなく、全く見慣れない風景の中にクロウリーは立っていた。
医務室や食堂のようなクラシックな様式はどこにも見当たらない。
ほとんど照明がない空洞に、わずかに残された機器の残骸が点々と明かりをともしている。
「…どうしよう、完全に迷ったである」

ほとんど闇。

だが、クロウリーの目には黄昏のように明るかった。
「ここは、どこであるか?」
周りを見渡しても動く影はまったくなく、焼けこげの臭気が鼻腔を刺激する。
なんだか嫌な感じがした。
すぐちかくの金属の天井が焼け、崩落しているのが見えた。
ここで何があったのだろうか。
すぐに彼の獣のような嗅覚がその状況を教えてくれた。
たくさんの人の血のにおい。
たくさんのアクマの血のにおい。
それらすべてが焼ける戦争の、におい。
クロウリーは、はっとして周囲を見渡した。
自分が眠っているときに起きてしまった悲劇の場所。
「ここはもしや…」
クロウリーは思わずつぶやき、ぞっとしながらあたりを見渡した。
大きな工場のようにも見える空間。
ここにアクマが入り込み、教団の人々が仲間の多くが無抵抗のまま、殺された。
伯爵の下僕として連れ去られた者もある、と聞く。
アレンたちが激戦の末にようやく退けたという、レベル4の…
激しい戦いの結果、この場所は崩壊し、激しい炎で何もかもが燃え尽きて、溶け、廃墟と化したのだ。
死のにおいに、体中が染まるのを感じて、クロウリーは身震いした。
  ー立ち入っては行けない場所に来てしまったである。
ここは捨てられた場所だ。
もはや誰も訪れない場所なのだ。
誰もが思い出したくない場所なのだ。
忘れようと捨てていく場所。
まるで、
自分が火をかけた我城のように。
そう思ったとたん。
クロウリーは身体から、血の気が引いていくのを感じた。
急激な孤独感がクロウリーの心を寒くし始める。
 ーここにいてはいけないである。
先ほどの群衆のイメージが手伝うのだろうか、それともこの惨状を目撃した為なのだろうか、妙に心細い。
こんないやな感覚は久しぶりだった。
 ー…怖い。
 ー落ち着け、落ち着け自分。
そのとき
急にジョニーの言葉が脳裏に響いた。
『迷ったら下に戻ってくればいい』
 ー…下に?
 ーおりれば戻れるだろうか?
彼は視界の片隅にあった壁の裂け目に目を向けた。
その奥に、飴のように溶けかかった古い非常階段が、見えた。
クロウリーはそわそわと居心地の悪い心を抱えながら、階下へのステップを踏み出した。

 

  

室長室で、捕獲されたコムイがぐるぐる巻きにされて転がったまま、哭いていた。
「ひどいよう、リナリー。逃げたりしないからさあ、この縄を解いてってば」
「だーめ」
「解いて」
「だめったらだめ」
「リナリー、おねがい」
「だ!め!もう、いい加減にしてよ兄さん。リーバー班長だって、科学班のみんなだって、すっごく忙しいんだから。迷惑かけちゃだめ。
室長室の資料は兄さんにしかわからないんだから。さっさと終わらせてくれないと!で?これはどっち?」
リナリーは山積みになってる書類の束を手に一つ一つコムイに確認をとっていた。
「いらない」
「これは?」
「あ、それはいる。だって、ボクが奇麗にコーディネートしてあげてるリナリーのお部屋を誰かが勝手に片付けちゃったらリナリー困るでしょう?だからお兄ちゃんが責任を持ってっ梱包しなきゃって…」
「いいよお、あの部屋は私使ってないもん」
「えええええええ?どうして使ってくれないの、お兄ちゃんのリナリーへの熱い愛を、真心を、想いを一杯詰め込んだ部屋なのにぃ!」
ぐるぐる巻きのコムイはごろごろ転がった。
莫大な量の書類を「いる箱」「いらない箱」に分類しているリナリーの頬が赤くなる。
「もおー(だからだってば)恥ずかしいからやめてよ。とにかく私の部屋は私がやるからいいの!ふざけてないで、これは?」
「…いる」
「これは?」
「いらない、あ…でも、まだ必要かも」
寝転がったままのコムイのすぐ後ろのドアが開いた。
「コムイー、ジジイがずっと借りてた本がでてきたから返しにーうわ!」
開いたドアから、山のような本を抱えたラビが入ってきて、コムイにけつまずいてこけた。
バランスを崩した分厚い本がどさどさと雪崩のように床に落ちる。
「いってええええさ」
それに続いて、そのすぐ後ろをやはり山のような本を抱えてヨロヨロとついてきていたアレンがこけた。
「ラビ、これで全部ーうわ!!な、なんですかいったい」
重い本の下敷きになったコムイは、死にそうな声を上げた。
「ひ、ひどいよ二人とも」
アレンはあわてて本を拾い始めた。
「わー!コムイさんすみません」
さらにその後ろから、リンクが顔を出す。
「全く君たちは騒がしい。おや?室長は、なんでぐるぐる巻きなんですか?」
「さては、またリーバー班長怒らせたさ?」
リナリーが深いため息をついた。
「はあ、いつになったら片付け終わるんだろう」
そのとき、インカムから婦長の声が響いた。
『室長、お忙しいところすみません。ちょっと困ったことが…』
「なんだい?」
コムイが転がったまま、急に真顔に戻る。
『その…クロウリーさんが病室を抜け出しまして』
「え?」
コムイは芋虫状態のままで身体を起こし、まじめな声で応答した。
「でも、クロウリーなら身体もだいぶ回復してるし、そんなに心配しなくても…そうそう、そういえばちょっと前に食堂付近でボク見かけたけど、食事でもしてるんじゃないかな?」
婦長の声が曇る。
「いえ、食堂には来ていないそうです。…ナースたちで居住区をかなり探したんですが、どこにもいなくて。……そちらの方にいってませんでしょうか?」
「いや、…こっちには来ていないと思うけど」
アレンとラビとリナリーが顔色を変えた。
「クロウリーというと、あの感染源の?」
リンクはのんきに横やりを入れる。
「その言い方はやめてください。リンク」
「そういえばクロウリーも結構方向音痴なのよね」
リナリーの言葉に、アレンは深刻そうにうなずいた。
「ええ。それにずっと病室にいましたからね。外のことはまだ全然わからないはずだし…」
「クロちゃんのことだから、どっかで迷子になって、泣いてるかもしれないさ?」
「大変だわ、早く探してあげないと」
元クロス部隊の三人は、あわててたちあがる。
「どこにいかれるんですか?」
本を拾うのをのんびり手伝っていたリンクが尋ねる間もなく、アレンは駆け出した。
「はやく、リンクも手伝って」
「え?あ、ちょっと」
リンクは軽いため息をつきながら、三方に散ったエクソシストたちを見送った。
「迷子捜索?まったく、エクソシストって連中は」

 

 

 

とうのクロウリーは、とんでもない場所に、いた。
彼は呆然として立ちすくんでいた。
とても信じがたい光景が目前に広がっている…
「これは…古代植物である」
彼は思わずつぶやいた。
食人花の群れ。
広大な古い伽藍の床を打割るように、巨大で毒々しい花をつけた植物が咲き乱れていた。クロウリー城のそれには及ばないが、かなり大きく生育しており、自分の力でうごめき、おぞましい叫び声をあげている。
クロウリーが見たことの無い種類も混ざっているようだ。
動力部に近いのだろうか、なにか不気味な地響きのような音がして、空間全体の壁が熱を持ち、温室のように生暖かく湿気を孕んでいる。
そのおかげで発育がいいのかもしれない。
感覚的には、だいぶ下までおりてきてしまったのだが、こんな場所で、こんなものに出会うとは想像もしていなかった。
巨大な伽藍は、メンテナンスもされないほど古い場所らしく、無数にひび割れた天井から絶えず水滴が降りそそいでいた。
まるで部屋の中で雨が降るように。

それらはクロウリーにはとても見慣れた風景。
見慣れすぎた風景だった。
似すぎている。
かつて自分があった場所に。
クロウリーは何かに惹かれるようにふらふらと奥に進んで行く。
その間にも食人花たちは触手と粘糸をのばし、まとわりついてきた。
顔や髪だけでなく、いつになく薄着のクロウリーの青白い腕や肩に、ぴたぴたと音を立てては触れ、時折大きく絡み付く。
しかし、花を扱いなれた者がわかるのだろうか、襲いかかろうとはせず、むしろ愛撫するように彼の躯をなぞり、優しく抱擁する。
しかし意に介すること無く、どんどん先に進んでいくクロウリーを引き止めはしなかった。触手をのばしながらも、すぐに解き、そのまま先に進ませていく。
植物たちの間をすり抜けるたびに、懐かしい甘い香りが満ちた。
その香りを嗅ぐのが久しぶりな為だろうか、クロウリーは少し頭がしびれるような感覚に襲われていた。
これが現実なのか夢なのか少しだけわからなくなり始めていた。

そのとき、彼の視野に、人影が映った。
思わずそちらを振り向いたクロウリーは、その人の姿を見た瞬間、雷に打たれたように躯を震わせ凍り付いた。
全身総毛立ち、血潮が逆流するかのようにざわめく。
体中が瘧を起こしたように震えはじめ、真っ白な前髪の先までもが揺れる。
鼓動は痛むほどに強く打ち、呼吸が止まる。
全身の力が萎え、舌は強張った。
その目は、もはやそれ以外のモノを見ることを拒絶してしまった。
クロウリーは、それが誰なのかをしっていた。
忘れるはずはない金色。
温かな春の光のように美しく輝く柔らかな金色の、髪。
愛らしくも神々しいほどすんだ深いルビーの眼差し。
人をとろかすようなその優しい微笑み。
柔らかく、甘く濡れた唇。
夢の中でさえ、自分の喜びと痛みのすべてを支配するその流麗な四肢。
そうだ。
一度も。
忘れたことなど一瞬もない。

だが
そんなはずはない。
彼女であるはずが…。
警戒をささやく本能とは裏腹に、歓喜が満ちあふれ、自分の躯の中にどれほどみたされない部分があったのかを否応無く悟らされる。
思考に反して、熱いものが目から溢れ続け、頬から牙、あごを伝わってぱたぱたと落ちていく。
ようやく吐き出した呼吸は、知らぬうちにかすれた声をのせ、おもわずその名を口にしかけた。
「…エ、リ…」
それは、麗しい四肢をしなるように、ゆっくりと近づいてきながら
至福の笑顔でささやいた。
 

「あ れ い す た あ さ ま」

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