3:22:48
冬の初めの空が抜けるように青い。
その海原のように青い空の中を、白銀の飛行船が滑空していく
「おおおお、うわああああ。こ、これはスゴイである」
クロウリーは子供のように興奮した様子で、思わず感嘆の声を上げた。
「ずいぶん高いところまで浮上するのであるな。地上があんなに遠いである!わあ。畑がパッチワークみたいに色とりどりに…」
「35人乗りの最新鋭だそうですからね。気球の部分は外壁はアルミニウムで、その中に水素ガスの気嚢がつめられているんだとか。ふむ、それで安定感があるのですね。おもったよりあまり揺れないし、なかなか乗り心地もいい。それにとても静かな乗り物ですね
…なるほど、エンジンルーム自体は気球の中にあるのか、なかなか工夫されている」
さすがのリンクも、こういう乗り物は初めてなのだろう。手渡されたパンフレットを片手に、興味深そうに船内を観察している。
「なによりラクチンであるな」
とクロウリーが付け加えると、リンクも軽くうなずいた。まじめ一点張りの彼にも、唱える異議は無いようだ。
「それにしても、乗り込んでいるお客さんは、ずいぶん豪華な出で立ちだなあ。見るからにお金持ちの人ばかりみたいですね。きっと運賃はものすごく高いんだろうなあ」
アレンは…というと外の風景には興味をしめさず、豪華な客室の客ばかりを眺めていた。同室のフロアには着飾った貴婦人や、仕立ての良さそうな背広を着込んだ人々が大勢いて、窓の外を眺めては感嘆の声を上げている。船はほぼ満席の様子だった。
さすがにクロウリーほどはしゃいでいる人はいないが…。
「飛行船に乗れるのは、まだまだ特別な階級だけですからね。政府の要人や金持ちや、貴族がほとんどでしょう。まともに乗ったらかなりの金額だと思いますよ」
リンクが、いかにも興味がなさそうな口調で、つぶやいた。
「そう、ですよね、ただで乗れて、ほんと良かった…」
どうやらアレンは客が…というより、お金の事が気になったらしい。いささかプレッシャーがかかっている様子でもあった。
いつもは前向きなアレンだが、金銭が絡むとかなり神経質だ。哀しい性というべきだろうか、しみついてしまった貧乏癖というべきか。
アンニュイな様子のアレンをよそに、クロウリーはガラス窓にべったりと顔を貼付けて、窓の外を眺めていた。
「これだけ大きくて、人もたくさん乗っているのに、空に浮いているなんて…なんだか不思議なくらいであるな。ああっ?!アレン、牛!
牛である!牧場の牛たちが豆粒みたいである!」
クロウリーに早く早くとよばれて、アレンも、ようやくガラス窓にへばりついた。
「…ほんとだ、へええ。おもちゃみたいにちっちゃいなあ。スゴイですね」
「すごいであるな!あ!あっちには橋が見えるである!」
「ほんとだ、精密にできてますねえ。ティムぐらいの大きさしかありませんよ」
「いやいや、アレは本物である!アレン」
「…あなたたち、はしゃぎ過ぎです、恥ずかしい。少し静かに…」
リンクは周囲の目をするように二人をたしなめた。
アレンがつまらなそうにリンクを振り返る。
「少しぐらいいいじゃないですか。リンクだってはしゃいでるくせに」
「…はしゃいでません」
「そうですかー?なんだかテンション高い気がするんですけど?」
リンクは赤面して、声を荒げた。
「何をいうんですか、断じて、はしゃいでなどいません!」
彼は言葉を濁すと、冷静を装うように、いつもの本に目線を落とした。



彼らとは対照的に、
もう一人のエクソシストのミランダ ロットーは、真っ青な顔で縮こまっていた。
豪華なラウンジのラシャばりの椅子にしがみつき、全身に妙な汗をかいてがたがた震えてながら、何かつぶやき続けている。
「大丈夫、怖くないわミランダ、冷静になるの。大きいっていったって、ふ…風船みたいなものよ。重くはないのだわ。浮くのがあたりまえなのよ。船長さんもいままで事故が起きた事は無いっていってたし、だいじょうぶ。絶対落ちたり……落ち、で、ででも落ちちゃったら…」
「あの…ミランダ、大丈夫であるか?」
心配して彼女の顔を覗き込むクロウリーとアレンに、ミランダは弱々しく微笑み返した。
「…は、あは、ごめんなさい。だ。大丈夫ですから。どうしちゃったかのかな。ちょっと乗り物酔いっていうか。なんだか、いつものクセで良くない事ばかり考えちゃって。平気だから、あはは」
クロウリーは優しく笑い、ミランダの背中をぽんぽんと撫で叩いた。
「心配いらないである。ものすごく大きな風船がくっついているのだから簡単に落ちたりしないであろう。もし万が一に墜落しても、急には落ちないそうである。空気が抜けながらゆっくり落ちるらしいであるから-」
「あー。ええっとクロウリー」
アレンが小声でたしなめる。
「(こういうところで、落ちるとか言っちゃだめですよ)」
アレンにささやかれたクロウリーは、あわてて周囲を見渡した。すぐ隣の育ちの良さそうなご令嬢が、とてもいやな顔でこちらを眺めている目線とモロにぶつかる。
クロウリーは気まずそうに、少しあいそう笑いを浮かべながら
「失礼、お嬢さん」
とつぶやき、わざとらしく声を張るように付け加えた。
「ゴホ。あー。ミランダ。な、なにしろ、こういう船は安全性が確認されているそうである。定期便が始まってから一度もトラブルは無いそうであるし、列車の旅より安全で早くて快適だというデーターもあるそうである。心配いらないである」
クロウリーは不自然にニコニコと笑った。
つられてミランダもぎこちない笑顔をうかべる。
「そ、そうですよね。私もそうじゃないかとおもったんです。ふ、ふふふふ」
ミランダは必死に相づちを打ったが、その様子はどう見てもパニックを起こしかけているように見える。首筋にはびっしょりと冷や汗をかいていた。
リンクは冷ややかに肩をすくめた。
「まったくあなたは恐がりというか、気が小さいというか…そんなことでよくエクソシストが勤まりますね」
本に目を落としたまま、リンクがいつものように苦言を述べはじめた。
ミランダはますます小さくなった。
「す、すみません、皆さんにご迷惑を」
「迷惑だなんて。そんな事無いですよ!」
アレンはあわてて、首を振った。
クロウリーも賛同する。
「そうである。だいたいレディに向かってその言い方は無いである、リンク!」
クロウリーの言葉をリンクは鼻で笑った。
「フン。私は事実を指摘しているだけです」
「な…?その言い方はなんであるか」
「二人ともやめてください。私がいけないんです。ごめんなさい!ごめんなさいいい。」
ミランダは二人の間に割って入ると半泣きで謝った。
(こまったな。このままだとミランダさんの神経がもたないかも)
アレンは小さくため息をついたとき、客室乗務員の男が近寄ってくるとミランダにむかって、とびきりの笑顔を向けた、
「マダム、お加減が優れないようですが、いかがですか?気分転換にラウンジにでもいかれては。この船のラウンジは豪華な装飾が自慢でして、そちらであついお茶などを召し上がればきっと落ち着くとおもいますよ」
「ラウンジ?」
ミランダが少しだけ興味を示した。
「ふむ、それはいいアイディアである。ワインとか、軽食もあるみたいだし、そこで一休みすれば気分も良くなるである。さあ。ミランダ」
クロウリーがエレガントに右手を差し伸べる。
その手をとるゆとりも無く、ミランダはガバッと立ち上がった。
「ワイン!?…そ、そうね!お酒とか飲めば落ち着くかも(いっそ酔いつぶれてしまえば、地上にあっという間に到着しそうだし)い、行ってみましょう!」
ミランダは強張った笑顔のまま、ゆらゆらと揺れる通路をよろめきながらズンズン歩き始めた。
「マ、マダム。ラウンジはこっち。反対ですよ」
心配そうな乗務員の言葉もミランダの耳には入っていないようすだ。
二人は慌ててミランダの後を追いかける。
「ミランダさん ちょっとまってください!」
「本当に大丈夫であるか?」
三人の後をティムキャンピーがパタパタと追いかけていく。
席にのこったリンクはあきれながらその様子を見送ると、小さくため息をついた。
「はあああ…まったく。あれがイノセンスに選ばれし者とは、情けない」
彼は肩をすくめると、本に没頭しようと努力した。
リンクは気がついていなかった。
「エクソシト」という言葉に反応した者が
この船の内にいる事に。



1:23:58
遥か下方に連なる山脈に、船の影が小さく移りこんで、滑るように流れていくのが見えた。アールデコ風にしつらえた、視界の広いガラス張りのラウンジで、ミランダは地面を指差すと、陽気に声を張り上げた。
「ひゃはは、みてみてあれ。たぶんハルツ山脈だわ。知ってるアレンくん?ブロッケン山とか、ボーデ渓谷って言う深い谷があってね、ドイツでは有名なの。すっごいわね。こんな高い場所にいるなんてありえない。ぜったいおかしい、でしょ?」
ミランダは革張りのソファーから立ち上がると、腕をぶんぶん振り回してしゃべり続ける。…すっかり出来上がっていた。
「そ、そうですね、そうかもしれませんね。あっミランダさん、タイムレコードぶつけないように気をつけて。あー、ねえクロウリー、そろそろ退散した方が良さそうですね」
「…そうであるな、他の人の迷惑にもなるし…ミランダ、ちょっと飲み過ぎである」
アレンはけんめいに相づちを打ちながら、ミランダを立たせようと努力した。とうのミランダは、手を振り回しながら なおもはしゃぎ散らしている。
「だいたいねえ、こんなおっきなものが、空中にう、ううふふふふ。浮かぶ訳が無いもの。おかしいわよねー」
ふらついて大理石の大時計にしなだれるミランダをクロウリーは優しく抱えて支えた。
「ミランダ、少し風にあたった方がいいである。やれやれ…気圧が低い場所では酔いが回るというけれども、まさかこんなに酔っぱらうとは…」
「…ミランダさんってば、気付けのブランデーを一気飲みしましたからね。……というか、ちょっとこういう展開は予想はしてた気もするんですけど、つい、油断しました」
アレンとクロウリーは困り果てたというように、顔を見合わせた。
「墜落?なーにいってるのよ、怖くない。ぜっんぜん怖くないから、ねえ、アレンくん聞いてる?」
「ははは、そうですね。さあ、ミランダさん。がんばって歩きましょうね。向こうにデッキがあるそうですから、ちょっと行ってみましょう」
「えええ?お酒もうないの?」
だだをこねるミランダを二人が支え、通路を抜けようとしたとき、船尾の方角で激しい爆音が響いた
「!?」
「なんであるか?」
アレンとクロウリーが、爆音の方角を振り返ると同時にガクンと船が揺れ、客室そのものが大きく傾いた。シャンデリアがけたたましい音を立て、三人の体が大きくはじかれる。バランスを崩したミランダが、倒れながら悲鳴を上げた。
「きゃあああ!」
クロウリーは、反動で窓側に振り出されミランダをとっさにかばって抱え込んだ。
が、ガラス窓が割れ、二人の体は勢い良く半分ほど外に飛び出してしまった
ゴウ、と冷たい風が体を薙ぎ、遥か彼方の地上が、クロウリーの視界を一杯に埋めた。
「クロウリー!」
「っ!」
必死でバランスをとりながら、片手でミランダをささえたままのクロウリーはつかまる場所を探して、片腕であがいた。ミランダはクロウリーの上着の中に縮こまってしがみついている。
「くうっ」
ガリガリと爪を立てるように船壁に手を伸ばしたが、留まる場所は得られない。その長身が、ずるっずるっと引力にとらわれ、窓枠から落ち始める。
「クラウンベルト!(道化ノ帯)」
イノセンスを発動させたアレンがクラウンベルトをのばし、間一髪でクロウリーを捕まえる。
白い帯に巻き取られたクロウリーは、逆さになっている自分の身は後回しで、ミランダの体をアレンに渡しながら、風に負けぬように声を張り上げた。
「助かったであるアレン。怪我は無いであるか?ミランダ」
一瞬にして酔いがさめたミランダはガタガタ震えた。
「…なに?何がおきたの?」
「何かが、爆発したようです!まずいですね。気球のほうに引火すると大爆発になります」
クロウリーを引き上げようとその手を差し出したアレンが、言い終わらないうちに、さらに数回の爆発と衝撃が彼らを襲った。アレンはクロウリーの手を離さぬように右腕に全力をこめ、必死でクラウンベルトを周囲に張り巡らせ、体を固定した。
その間にも船がぐんぐん傾いていく。
急速に船がバランスを失い、地上へ向かって失墜しはじめていた。
客室からは客たちの阿鼻叫喚の叫び声が響いてくる。
天と地の視界が、逆転しかけたその瞬間、
三人のエクソシストたちは、雲海の狭間に恐ろしい物を見た。
「アレンくん!あれ!」
ミランダが声を震わせた。
「…まずい!」
アレンも、すぐさま状況を理解した。
そこには黒く醜悪な、エクソシストの宿敵の姿があった。
「ぼやぼやするな小僧!いくぞ!」
ほとんど脊椎反射に近い速度でクラウンベルトを振りほどいたクロウリーは、逆さまに吊られた信じられない体勢からバネのように自力で身を起こした。彼の白い前髪はたてがみのように逆立ち、その身はすでに、完全に獣の衝動にゆだねられていた。
発動したクロウリーは体を立て直すと ぞっとするほど猛々しく咆哮し、躊躇無く空中に飛び出した。
その姿は魔王のように黒に研ぎすまされて鋭く、まぶしい青い空を切り裂いていく。
アレンウォーカーもミランダの体を安全な場所におくと、白い道化を身に纏うて、銀色の仮面を顔におおった。
「…ミランダさん!船の修復を早く!それから、船長にこのことを伝えてください。一刻も早く安全な場所へ着陸を。それからティムの事頼みます!」
「ええ!」
クロウリーに続いてアレンが外に飛びだすのを見送ったミランダはタイムレコードに手をかけ、集中する。
客室側の通路が乱暴に開き、リンクが姿を見せた。
「いったい何がおこってるんですか?!」
ミランダの声が響く。
「タイムレコード(刻盤)発動!ターゲット補足、リカバリー!(時間回復)」
ミランダの手に踊る黒い刻盤から金色の光の波が溢れ出すと、船全体が包み込まれた。みるみるうちに砕けちった窓ガラスが氷樹のように伸びて窓を修復し、爆発で吹き飛んだ部分が再生していく…と同時に船は水平を取り戻すと再び浮上し始めた。
アレンの姿を追って窓の外に目をやったリンクは、息を呑んだ。
「なんてことだ…こんな場所で!」
リンクは事の深刻さを瞬時に理解し、ギリリと歯噛みした。
孤高の船の周囲は
完全にアクマの大群に取り囲まれていた。


続く