クラウンベルトの拘束から逃れつつある船は、徐々に空に向かって浮き始めた。
風にのり、今度はその方角をゆっくりとかえていく。
「いかん、いそがねば!」
すくんでいる残りの客を次々に船の外に追い出したリンクは、
今度は操舵室に向かった。
乗務員たちと船長を次々に抱え、無理矢理外に放り出す。
既に船はだいぶ浮上し始めていて、出口の外に放り出された乗務員たちがびしゃびしゃと大きな音をたてて、湿地の泥に埋まる。
ーまあ、数メートルの高さから泥田んぼへのダイビングならば、足を挫くぐらいの事はあっても命に別常は無いだろう。
リンクはパタパタと手を払いながら、急いでアレンのいるデッキに顔を出した。
「乗客と教務員は全員退避完了です。あとは私たちだけだ」
クラウンベルトにかかる負荷をもろに受けて続けるアレンが、苦しそうに振り返った。
「そうですか!よかった。リンク、君もはやく…」
「そうはいきません。最後まで残ります。私の任務は君の監視…うわ!」
「貴様は邪魔だ。とっととおりろ!」
いつの間にか、船によじ上って来たクロウリーは、リンクを肩に担ぎ上げると、まったく躊躇せずにデッキの手すりの外にポイっと放り出した。
「うわあああぁぁ…」
リンクの叫び声が短く響き、かなり下でビシャという泥の音が、した。
クロウリーは下を覗き込み、冷たく言い放つ。
「体の傷に気をつけろ!ぼちぼち復活するぞ」
「よくもやってくれまし…こ…報告……に」
声は小さくなってかき消される。
聴覚はわりといいはずのクロウリーは投げやりに
「よく聞こえんな」とうそぶいた。



「ク、クロウ…リー、はやくミランダさんを…」
絞り出すようなアレンの声を受けて、クロウリーはミランダに歩みよった。
ミランダは炸裂しかけの柱を抱えるようにうずくまっている。
クロウリーは銀色の腕輪を鳴らしながら手を差し伸べた。
「さあ、お嬢さん、今のうちだ!」
苦悶の表情を浮かべたミランダは首を振る。
「クロウリーさん早くおりて下さい!アレンくんも!わ、わたし、もう…もう…ここから…はなれられない…の」
見れば、タイムアウトの結界は最小限にまで絞り込まれていて、爆弾とそれを抱えるようにうずくまっているミランダの腕の中だけがうすい光の結界を結んでいる。
彼女が少しでも距離を置けば、即、時間停止の結界が解けて大爆発が再びおこるだろう。
「今なら、まだ…、皆さんなら」
そのとき何本もの弦が一気にかきむしられるような音がした。
ザンッ
ギ…ギゴンッ
「ぐ、がっ」
異様な音に、クロウリーが思わず振り返ると、アレンが血反吐を吐き、その体が倒れ込むのが目に入った。
ついにすべてのクラウンベルトが大地を離れてしまった。
急にすべての縛めから解き放たれた船は、呼気を求める鯨のように大きくその身をもたげたのだ。
むしり取られた帯は、アレンの体にモロに衝撃を伝えた。今まで必死にデッキで船の重みに耐えていたアレンの体は、すべての舫の呪縛から開放された反動で激しくはじかれ、船体に強く叩き付けられてしまった。
アレンはそのまま動かなくなった。
「小僧!!」
意識を失ったアレンの体が傾いていくデッキの手すりからこぼれるように落下した。
「あのまぬけ、また落ちっ…!」
駆け寄り、手すり下を覗き込んだクロウリーは、はっとして思わず凍り付いた。
先ほどまで手の届きそうだった湿地がない。
地上が遥かに遠い。
船は風にながされて、山頂の狭い湿地から外れ、深い渓谷の真上に踊り出していたのだった。
しかし、
絶望的な深さの谷底に落ちたかも知れないアレンの白い姿はみあたらない。
呆然とするクロウリーの目の前をティムキャンピーが旋回する。
「ティム!?ヤツは?」
金色の小さなゴーレムは、彼の上着に噛み付くと、下に注意を促すように、懸命に引っ張った。
ティムキャンピーのシッポが船底の奥を指し示す。
クロウリーはデッキのふちより大きく身を乗り出して、船底を逆さまにのぞきこんだ。
船底にある錨綱に何か白いものが絡み付いていて揺れているのが見えた。
その錨綱の先に引っかかっているのは…少年の体だった。地面から抜けた道化ノ帯の一本が、奇跡的にも絡み付いて、アレン ウォーカーをつりさげている。
「アレン!!」
クロウリーが懸命に呼びかけても返事は無い。不自然な体勢で引っかかっている様子から見ると、意識が戻っていないようだ。
綱の先にさらに帯でぶら下がっている為に、リカバリーの範囲から逸脱しているのだ。
急がなければ、帯がほどけて、このまま落下する可能性もある。
クロウリーは、臆する事無くデッキの手すりを乗り越えた。その縁にぶら下がり、船底に手をかける場所を探る。
船壁を構築するボルトの継ぎ目がわずかな手がかりを伝えてくる。
彼は指先に血のガントレットを固めると、継ぎ目に深く指を突き立て自分の体を支えた。
足の下は高度1000mほどだろうか。
頭上に船底が、その下に青い空が、どこまでも虚ろに広がって見える。
遥かに遠い谷底には激流が横たわり、鋭い岩場が牙をむいている…
全体重が彼の細い指の先にかかり、その長身は強風に煽られ、意志に反して大きく揺れる…。
普通に歩けば数歩の距離が、今は絶望的に遠い。
ほんの少しでも油断すれば、爪の先が外れて自分は谷底に落下するだろう。
そうなれば、二度と再び船に戻る方法はない。
仲間の命は…
彼は、嫌な考えを払拭し、鋭い指先をかけた継ぎ目からはがされないように必死にこらえながら、一指しづつアレンへ近づいていった。
拷問のような指先の激痛と気が遠くなるような焦燥の果てに……
やっとの思いで錨綱元にたどり着いたクロウリーは、ワイヤーを編み込んだ太い綱にその強靭な牙と顎で喰らいついた。
ようやく自由になった両手で、慎重かつ素早くアレンの躯をたぐり寄せる。
やはり少年は意識を失っていた。口元から血をにじませているが、唇を切った為らしい。軽い脳しんとう程度である事を確かめたクロウリーは、少しほっとして、片手でアレンの細い体を抱えこんだ。
と、血を吸う時のように少年の喉元に頭を近づけ、大きな犬牙で教団の黒い団服の襟元をギシと噛み締め、獲物のようにくわえた。
その体勢から自由になった両手でしっかりと綱の先を握り、振り子のように大きく漕ぐ。
ギシギシと綱が軋む。
その顎で獲物を持ち歩くのは慣れた所作とはいいながら、うっかりすると仲間を傷つけそうで危なっかしい。クロウリーの牙に少年の全体重とさらに遠心力がかかり、息苦しさが増す
グンッグンと揺れるその反動を最大限に利用し、クロウリーは船の側面へ何度もその身を当てた。
鋭いガントレットが固い船壁に突き立てられる。
キキキギイギギイイガリリ…
その爪を拒絶する船の壁に 次第に彼の爪痕が刻まれ、やがて穿たれた傷が手がかりとなると、彼は船壁が凹むほどワシ掴んで窓の下にぶら下がった。
休む間もなく恐るべき運動神経で逆上がるように船体の窓によじ上り、足でガラスをぶち破って、船室内に飛び込む。
クロウリーは酸素を吸う為に、噛み締めた顎からアレンを開放した。ガラスの破片からアレンを守っていた腕を解いて どさりと床に転がし、苦しい息を肩で整えた。
「はあっはあっはあ」

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風がふくたびに、ギシギシといやな音が響き、銀色の床がゆらゆらと揺れている…。
その床にぺたんとすわりこんだまま、ミランダ ロットーは涙を流していた。
「すみません、ごめんなさい、クロウリーさん」
窓の外には岩壁が迫っていた…



「さてと、ここからが本番だ」
息を整え、服の汚れを払いながら、クロウリーは呟いた。



続く